リューリク家人名録

エレーナ・ヴァシーリエヴナ・グリンスカヤ

Елена Васильевна Глинская

モスクワ大公妃 великая княгиня Московская (1526-33)

生:?
没:1538.04.03/04−モスクワ

父:ヴァシーリイ・リヴォーヴィチ・グリンスキイ=スレポーイ公
母:アンナ・ヤークシチ

結婚:1526
  & ヴァシーリイ3世・イヴァーノヴィチ 1479-1533

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチと
1イヴァン1530-84モスクワアナスタシーヤ-1560ロマーン・ユーリエヴィチ・ザハーリイン
2ユーリイ1532-63ウーグリチウリヤーナ-1569ドミートリイ・フョードロヴィチ・パレツキー公

ヴァシーリイ3世のふたり目の妻。

 グリンスキイ家は、家伝によればママイの末裔。同時代史料から確実なのは、1430年代に存在したボリース・イヴァーノヴィチ。すでにこの時点で、ウクライナ有数の土地持ちであったようだ。家伝によれば、スームィ州の集落グリンスクが家名の由来らしいが、その所領はこんにちのチェルカースィ州やポルターヴァ州に広がっていた。歴史家の中にはこれを «グリンスク公領» と呼ぶ向きもあるものの、かれらの領土が «分領公領» としてリトアニア大公から認知されていたとは思えない。グリンスク公領の存在を認めればグリンスキイ家は公家であるし、グリンスク公領の存在を認めなければグリンスキイ家は公家ではない。

 伯父ミハイール・リヴォーヴィチ・グリンスキイ=ドロードヌィイは、リトアニア大公アレクサンドラスの宮廷の第一人者だった。そのため、1506年にアレクサンドラスが死ぬと、後を継いだジギマンタスに忌避され、トゥーロフの所領に逼塞。
 1508年、弟ヴァシーリイ・リヴォーヴィチやその幼い娘エレーナも引き連れて、モスクワ大公ヴァシーリイ3世のもとへ。

 1526年、エレーナ・ヴァシーリエヴナは、ソロモーニヤ・サブーロヴァを修道院に押し込んだヴァシーリイ3世と結婚。当然その最大の任務は、ソロモーニヤ・サブーロヴァの果たせなかったお世継ぎの出産であった。

 1533年、ヴァシーリイ3世が死去。幼いイヴァン4世に代わり、母后であるエレーナ・ヴァシーリエヴナが «摂政» となって実権を握った。
 なお、ロシア語には «摂政» という言葉は存在せず(のちにポーランド語から輸入された)、幼君に代わって母后が権力を掌握するのは聖オリガの昔からごく普通のことだった。100年前にもソフィヤ・ヴィトフトヴナヴァシーリイ2世の «摂政» となっている。

 エレーナ・ヴァシーリエヴナの下で大きな権勢を振るったのが、寵臣イヴァン・フョードロヴィチ・オフチーナ=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公。これに反発した伯父ミハイール・ドロードヌィイすら、1534年に投獄し、獄死させている。
 またヴァシーリイ3世の弟であるドミートロフ公ユーリイ・イヴァーノヴィチスターリツァ公アンドレイ・イヴァーノヴィチをも獄死させた(いずれも1536年)。これはひとつには、歴代モスクワ大公の推進してきた中央集権化政策の延長という側面があると言える。

 他方、1535年には貨幣改革を実施し、キエフ・ルーシ以来の諸分領の寄せ集めだったモスクワ・ロシアに、初めて統一的な貨幣体系を導入した。この時誕生した貨幣がコペイカ。

 都市、特に西方国境の都市を精力的に強化。
 1536年にリトアニアと、1537年にはスウェーデンと講和。

 モスクワのヴォズネセーニエ教会(ヴォズネセンスキイ女子修道院?)に葬られる。

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最終更新日 01 01 2013

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