リューリク家人名録

聖ドミートリイ・イヴァーノヴィチ

Св. Дмитрий Иванович

ツァレーヴィチ царевич

生:1582.10.19/10.29−モスクワ
没:1591.05.15/05.25 (享年8)−ウーグリチ

父:ツァーリ・イヴァン4世雷帝モスクワ大公ヴァシーリイ3世・イヴァーノヴィチ
母:マリーヤ (フョードル・フョードロヴィチ・ナゴーイ)

結婚:なし

子:なし

第21世代。モノマーシチ(モスクワ系)。イヴァン雷帝の第八子(五男)にして末子。

 父の最晩年に生まれた子であり、1584年に父が死んだ時にはまだ2歳にもなっていなかった。ツァーリ位は異母兄フョードル1世が継ぐ。

 当時モスクワ大公家で生き残っていたのは、フョードル1世とドミートリイ・イヴァーノヴィチだけとなっていた。フョードル1世にはまだ子がなかったため、ドミートリイ・イヴァーノヴィチが跡継ぎとして第一の、そして唯一の候補であった。ただし、教会法上、父とその7人目(8人目?)の妻との間に生まれたドミートリイ・イヴァーノヴィチのツァーリ位継承権は、よく言って不分明、厳密には認められていなかった(正教会は、再婚は2度までしか認めていなかった)。

 精神的に虚弱だった(と言われる)兄に代わって政治の実権を握ったのは、«摂政会議» の5人の貴族だった。ドミートリイ・イヴァーノヴィチはかれらからウーグリチを領土としてもらい、母やナゴーイ一族とともにモスクワから移った。
 このため、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは通常 «最後の分領公» と呼ばれる。確かにウーグリチは分領で、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはここに独自の宮廷を構えた。しかし税収は受け取ることができたが、統治の実権はドミートリイ・イヴァーノヴィチにも(幼年だから当然)母后マリーヤ・ナガーヤにも与えられず、モスクワから派遣された代官ミハイール・ビテャゴーフスキイが握った。独自の宮廷があってもそこに仕える独自のボヤーリンがいたわけでもない。名目的には分領公と呼んでもいいだろうが、分領公としての実体は欠けていた。
 結局、ドミートリイ・イヴァーノヴィチとナゴーイ一族は、ウーグリチに国内追放されたも同然であったと言える。君主が交代したばかりでまだ不安定で、なおかつ権力闘争が日ごとに激しさを増す新政権にとって、ドミートリイ・イヴァーノヴィチもナゴーイ一族も目障りな存在であったということであろう。

 1591年、ウーグリチで死去。
 その直後から、ナゴーイ一族はドミートリイ・イヴァーノヴィチの死をボリース・ゴドゥノーフの暗殺だと主張し、これに煽動されたウーグリチ市民はビテャゴーフスキイなど関与が疑われた者たちを私刑にかけた。
 ウーグリチでの暴動とナゴーイ一族の主張を聞きつけたボリース・ゴドゥノーフは、早くも4日後に府主教ゲラーシイ、封土庁長官ヴィルズギン、オコーリニチイだった貴族クレーシュニン、そして大貴族の筆頭格ヴァシーリイ・シュイスキイ公をウーグリチに派遣。かれらの調査によると、ドミートリイ・イヴァーノヴィチの死は、同年代の子供たちと遊んでいた最中に癲癇の発作に襲われ、手に持っていた杭ないしナイフを刺してしまったことによるとされた。そしてこの際、監督不行き届きでマリーヤ・ナガーヤを含むナゴーイ一族が処罰され、ドミートリイ・イヴァーノヴィチの遺骸はウーグリチの教会に葬られた(ツァレーヴィチだったのだから、クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られてしかるべきだが、なぜ? 教会法上は嫡出子と認められなかったからか?)。

 事態は一旦これで収まっている。ドミートリイ・イヴァーノヴィチが再び思い出されるのは、1603年、ポーランドにドミートリイ・イヴァーノヴィチを僭称する偽ドミートリイ1世が登場してからである。かれは「1591年に死んだのは実はドミートリイ・イヴァーノヴィチではなく別人である」と主張したが、そのような噂が1591年以来存在していたわけではない。事実は、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは単に忘れられていた。しかしボリース・ゴドゥノーフがツァーリとなり、かれの治世に対する不満が高まると、イヴァン雷帝の血を引く正統なツァーリを余所に求めた結果、ドミートリイ・イヴァーノヴィチの存在を思い出したのである。

 偽ドミートリイ1世が偽であることはまず間違いないが、ドミートリイ・イヴァーノヴィチの死の真相自体は、今日でも確定されていない。
 単純化すると3説が存在する。

  1. 癲癇の発作により事故死した(調査団の結論)。
  2. ボリース・ゴドゥノーフの派遣した暗殺者に殺された(ナゴーイ家の主張)。
  3. 実は死んだのはまったくの別人で、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは生き延びた(歴代偽ドミートリイの主張)。

 1606年、偽ドミートリイ1世を殺してツァーリとなったヴァシーリイ・シュイスキイは、改めてドミートリイ・イヴァーノヴィチが1591年にウーグリチで死んだことを確認。デモンストレーションする必要に駆られたか、ドミートリイ・イヴァーノヴィチの遺骸を掘り出し、行列を仕立ててモスクワに移送した。そこで母后マリーヤ・ナガーヤに確認させた上で、クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に埋葬した。よって現在ドミートリイ・イヴァーノヴィチは、父イヴァン雷帝の傍らに眠っている。
 なお、ヴァシーリイ・シュイスキイはこの時同時に死因について、かつて自らが断定した事故死を否定し、ボリース・ゴドゥノーフによる暗殺だと宣言。正教会をして、ドミートリイ・イヴァーノヴィチを聖者に列せしめた。

 あるいはこの時のヴァシーリイ・シュイスキイの主張もあってか、以後暗殺説が一般的となった。ただし近年は、事故説の方が有力であるように思われる。別人説を信じる者はおそらく皆無であろう。

 ちなみに、ウーグリチ市の紋章にはドミートリイ・イヴァーノヴィチが描かれている。

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最終更新日 30 11 2012

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