リューリク家人名録

ボリース・ヴァシーリエヴィチ

Борис Васильевич

ヴォロク公 князь Волоцкий (1462-94)

生:1449.07.26
没:1494.05 (享年44)

父:モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公 (モスクワ大公ヴァシーリイ1世・ドミートリエヴィチ
母:マリーヤマロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

結婚:1476
  & ユリアーニヤ公女 -1504 (ホルム公ミハイール・ドミートリエヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ユリアーニヤ・ミハイロヴナと
1フョードル-1513ヴォロク
2イヴァン-1504ルーザ

第18世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ヴァシーリイ2世の六男。ただし長男ユーリイと四男セミョーンが早世していたので、事実上ボリースが四男。

 1462年、父が死去。ヴォロコラムスク、ルジェーフ、ルーザを分領としてもらう。

 1473年までは、長兄モスクワ大公イヴァン3世大帝と平和裏に暮らしていた。しかし1473年、次兄ドミートロフ公ユーリイ・ヴァシーリエヴィチが死に、遺領をイヴァン大帝が独り占めにしたところから、ボリース・ヴァシーリエヴィチとイヴァン大帝との関係が悪化。
 その年の内にボリース・ヴァシーリエヴィチはイヴァン大帝からヴィーシュゴロドをもらうが、関係は良くならず。

 1479年、イヴァン大帝に仕えていたイヴァン・オボレーンスキイ公が、イヴァン大帝のもとを離れてボリース・ヴァシーリエヴィチに鞍替えするという出来事が起こる。
 伝統的な慣習法では、分領公には「他領を逃亡したボヤーリンを自由に受け入れる」という基本的な権利が認められていた。このため、イヴァン・オボレーンスキイ公の行為は何の問題もないはずだったが、ルーシの諸公の上に君臨せんと志していたイヴァン大帝は、イヴァン・オボレーンスキイ公を罰することを決意。その引渡しをボリース・ヴァシーリエヴィチに求めてきた。
 兄との関係が悪化していたこともあり、ボリース・ヴァシーリエヴィチはこの要求を一蹴。するとイヴァン大帝は、あろうことかボリース・ヴァシーリエヴィチの領内でイヴァン・オボレーンスキイ公を捕らえ、モスクワに連れ去ってしまった。
 こうして、分領公としての権利を侵害されたボリース・ヴァシーリエヴィチとイヴァン大帝との対立は決定的となった。ボリース・ヴァシーリエヴィチは、長兄との対抗上、別の兄のアンドレイ・ゴリャーイと手を結んだ。

 1480年、アンドレイ & ボリース連合軍はノーヴゴロドに侵攻。
 時あたかもキプチャク・ハーンのアフマートがモスクワへの侵攻を計画しており、窮地に立たされたイヴァン大帝はロストーフ主教ヴァッシアーンを派遣し、アンドレイ & ボリース兄弟に講和を認めた。
 しかしアンドレイ & ボリースはモスクワに使節を派遣する一方で、リトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世とも交渉を進めた。もっともカジミエラスはポーランドの統一、ボヘミア・ハンガリー王位の獲得に忙しく、援助を断った。
 アンドレイ & ボリースはプスコーフへ。プスコーフも支援を断ると、兄弟はプスコーフ公領を略奪。
 まさにこの時、アフマート・ハーンがモスクワに進撃。イヴァン大帝アンドレイ & ボリースの分領公としての地位を再確認し、講和。アンドレイ & ボリースは軍を率いてウグラー河畔へ。

 1484年、母のマリーヤ・ヤロスラーヴナが死去。アンドレイ・ゴリャーイを偏愛していた母は、基本的に弟たちを擁護しており、その死で兄弟の関係は再び緊張したようだ。

 1485年、イヴァン大帝のトヴェーリ遠征に従軍。

 1492年、イヴァン大帝はクリム・ハーンのメングリ=ギレイに援軍を派遣。ボリース・ヴァシーリエヴィチもその命令に従い、配下の軍を従軍させた。
 しかしこの時、アンドレイ・ゴリャーイは軍を派遣せず。このためイヴァン大帝に捕らえられ、投獄された。ボリース・ヴァシーリエヴィチもモスクワに召喚されたが、アンドレイ・ゴリャーイと同じ運命を辿ることは免れ、無事モスクワを去った。

 モスクワ大公による分領の撲滅は、イヴァン大帝の孫イヴァン雷帝の代まで待たねばならなかった。

 モスクワのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。

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最終更新日 01 11 2011

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