リューリク家人名録

アンナ・ヴァシーリエヴナ

Анна Васильевна

公女 княжна
リャザニ大公妃 великая княгиня Рязанская

生:1450
没:1501

父:モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公モスクワ大公ヴァシーリイ1世・ドミートリエヴィチ
母:マリーヤマロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

結婚:1464
  & リャザニ大公ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・トレトノーイ 1448-83

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ヴァシーリイ・トレトノーイと
1イヴァン1467-1500リャザニアグリッピナヴァシーリイ・バービチェフ
2フョードル
3アンナフョードル・イヴァーノヴィチ・ベリスキイ公-1506(ゲディミノヴィチ)

第18世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ヴァシーリイ2世の唯一の娘。

 1456年にリャザニ大公イヴァン・フョードロヴィチはその死に際して、遺児の養育とリャザニの統治を、従兄弟にあたるモスクワ大公ヴァシーリイ2世に委ねた。ヴァシーリイ2世は遺児をモスクワに引き取って育てる。つまり、アンナ・ヴァシーリエヴナは未来の夫と物心ついた頃から一緒に成長したことになる。
 もっとも、ふたりが互いのことをどう思っていたのか、そもそもどんな少年少女時代を過ごしたのか、当時の年代記は何も伝えてくれていない。しかしいずれはリャザニも手に入れようと考えていたであろうヴァシーリイ2世にとっては、ふたりの結婚は1456年以来の計画だったのだろう。

 1464年、結婚してアンナ・ヴァシーリエヴナは初めてリャザニの地を踏む(夫のヴァシーリイ・トレトノーイ自身8年振りだった)。
 夫の存命中は政治にはかかわらず、息子の誕生後はその養育に専念した。

 1483年、若干35にして夫が死ぬと、アンナ・ヴァシーリエヴナは嫡男イヴァン・ヴァシーリエヴィチがまだ幼年であったため «摂政» となる(とはいえイヴァン・ヴァシーリエヴィチはすでに16になっていた)。
 摂政としてのアンナ・ヴァシーリエヴナは、兄イヴァン大帝からの圧迫に耐えてリャザニの独立を維持した(すでに夫の存命中にリャザニ大公領の相当部分がモスクワに併合されていた)。のみならず、イヴァン大帝との関係を最大限に活用して、リャザニの勢力拡大を推進。その同意を得てプロンスク公領をリャザニ大公領に併合する(プロンスク公領については、1465年に、あるいは1483年にリャザニ大公領に併合されたとする説、直接モスクワ大公領に併合されたとする説などあって、実ははっきりしない)。
 さらに南方、かつてモスクワとの間で領有権を争い、一旦はモスクワに譲渡していた «リャザニのウクライナ» の地を、モスクワが他方面で手一杯な状況に乗じて開発。ドン河畔のステップを貴族たちに与え、農地を切り拓かせた。
 また経済的、文化的な発展にも意を注ぎ、各地に教会を建設している。

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