ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ
Владимир Андреевич
ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公 князь Владимирский (1146-49)
ブレスト公 князь Брестский (1153-57)
ドロゴブージュ公 князь Дорогобужский (1157-70)
生:1131
没:1170.01.28
父:ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公アンドレイ善良公 (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:? (ポーロヴェツ人のトゥゴルカーンの孫娘)
結婚:
& ? (ノーヴゴロト=セーヴェルスキー公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)
子:?
第9世代。モノマーシチ。
父が死んだのは1141年、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの生年が正しいとすれば、まだ10歳の時である。当然分領はもらえなかったとしても、どこで育ったのだろう。ちなみに父が公を務めていたペレヤスラーヴリは、従兄弟のイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの領有するところとなっている。
1146年、キエフ大公フセーヴォロト・オーリゴヴィチが死ぬと、ごたごたの末に従兄弟イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公位を継ぐ。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはフセーヴォロト・オーリゴヴィチの子スヴャトスラーフをヴォルィニから追い出し、代わりにヴラディーミル・アンドレーエヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキー公とした。
なお、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチは1141年、父の死んだ年にヴラディーミル=ヴォルィンスキー公になっているとする説もある。逆に、1146年から48年までヴラディーミル・アンドレーエヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ではなかったとする説もある。
1148年、キエフ大公に返り咲いていたイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは自分の息子をノーヴゴロト公とするため、ノーヴゴロト公だった実弟スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキー公とした。ヴラディーミル・アンドレーエヴィチは公位を追われることになった。
ただしこの辺り史料が混乱している。ヴラディーミル・アンドレーエヴィチが公位を追われたのは1149年とする説もあり、しかもその理由も、キエフ大公位を追われてヴォルィニに逃亡してきたイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが、自らヴラディーミル=ヴォルィンスキー公となったためだとされる。
1151年にキエフ大公位を奪回したイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、後任のヴラディーミル=ヴォルィンスキー公に再び(?)スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチを就ける。1154年にスヴャトポルク・ムスティスラーヴィチが死ぬと、今度は末弟ヴラディーミル・マーチェシチをヴラディーミル=ヴォルィンスキー公とする。
この一連の措置にヴラディーミル・アンドレーエヴィチがどう対応したのかはわからない。代償としてどこぞに領土を与えられていてもいいと思うのだが。ペレソープニツァやドロゴブージュが与えられたとする文献もあるが、1153年にブレスト公になったというのもおそらくそういうことなのだろう。
1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ死後のキエフ大公位を巡る争いにおいて、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチは遺児ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを支持。これに対してヴラディーミル・マーチェシチは亡兄の仇敵であるロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーを支持した。こうしてブレストのヴラディーミル・アンドレーエヴィチとルーツクのムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとが、ヴラディーミル=ヴォルィンスキーのヴラディーミル・マーチェシチと対立し、キエフ情勢そのままな混沌とした状況がヴォルィニに現出した。
1157年、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴラディーミル・マーチェシチを追いだしてヴラディーミル=ヴォルィンスキー公となり、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチはドロゴブージュ(ヴォルィニの)をもらった。
1158年にはムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとともにキエフに侵攻。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチを追い、スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチをキエフ大公とした。
ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの死後、ヴラディーミル・マーチェシチがドロゴブージュ公となり、未亡人を追放。未亡人はヴラディーミル・アンドレーエヴィチの遺骸をヴィーシュゴロドに葬った。