リューリク家人名録

スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

Святослав Владимирович

生:?
没:1221

父:ドロゴブージュ公ヴラディーミル・マーチェシチキエフ大公ムスティスラーフ偉大公
母:?

結婚:?

子:?

第10世代。モノマーシチ。

 生年は不明。両親の結婚が1150年とされているので、1150年代だろうと想像される。
 1171年、父が死去。父は弱小で、分領はドロゴブージュのみ。そのドロゴブージュは長兄と思われるムスティスラーフが継いでいるので、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチには自前の分領を持たなかったものと思われる。

 1189年、キエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが混乱するガーリチを自ら獲得しようと、息子グレーブを派遣。
 当時キエフ公領の覇権を握っていたリューリク・ロスティスラーヴィチはこれを知ると、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチにグレーブ・スヴャトスラーヴィチの後を追わせた。もっともその結果どうなったかは不明。
 ということは、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチは父の死後、リューリク・ロスティスラーヴィチのもとに身を寄せていたのか。父はリューリク・ロスティスラーヴィチと良好な関係にあったので、あるいはその死に際してまだ若い遺児をリューリク・ロスティスラーヴィチに託した、というようなこともあったのかもしれない。
 兄(?)ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチスヴャトスラーフ・フセヴォローディチを支持しその娘婿となっていたので、兄弟は微妙な関係にあったことになる。

 1192年、兄(?)ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチとともにポーロヴェツ人と戦う。

 1196年、キエフ大公となったリューリク・ロスティスラーヴィチの命により、兄弟とともにヴォルィニを蹂躙。

 1202年、ガーリチヴォルィニ公ロマーン偉大公がキエフを占領してリューリク・ロスティスラーヴィチを屈服させると、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチは兄弟たちとともにこれに従属する。

 1221年、ムスティスラーフ幸運公とともにガーリチ遠征。しかしハンガリー軍との戦いで命を落とした。

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