ロマーン・ヴラディーミロヴィチ
Роман Владимирович
ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公 князь Владимирский (1118-19)
生:1081?
没:1119
父:キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ (キエフ大公フセーヴォロト・ヤロスラーヴィチ)
母:ギータ (イングランド王ハロルド2世)
結婚:1113
& ? (ペレムィシュリ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
母親不詳 | ||||||
? | ヴァシーリー |
第8世代。モノマーシチ。ヴラディーミル・モノマーフの四男。
経歴からすると、むしろはるかに年少だったのではないかと思われる。
父がスヴャトスラーヴィチ兄弟と争った際、長男ムスティスラーフ偉大公はノーヴゴロト公として活躍したし、次男イジャスラーフは1095年にムーロムを奪っている。1096年にイジャスラーフが戦死すると、代わってロストーフに派遣されたのは六男ヴャチェスラーフだった。以後、ヴャチェスラーフかあるいは七男ユーリー・ドルゴルーキーがロストーフ公になったと一般に考えられている。
おそらく1097年のリューベチ会議を契機にキエフ・ルーシの再編がおこなわれ、この時父はスモレンスクにも息子を派遣したのではないかと想像されるが、のちにスモレンスク公として登場するのは三男スヴャトスラーフである。
スヴャトスラーフが1097年にスモレンスク公となったかどうかはわからないが、だとしたら四男ロマーンと五男ヤロポルクの不在が目を惹く(八男アンドレイ善良公はこの時まだ生まれていない)。
1113年、父がキエフ大公に。長男ムスティスラーフ偉大公はノーヴゴロト公だったし、次男イジャスラーフはすでに亡く、三男スヴャトスラーフがペレヤスラーヴリ公となった。
スヴャトスラーフに代わってスモレンスク公となったのは、四男ロマーンでも五男ヤロポルクでもなく、六男ヴャチェスラーフであった。ユーリー・ドルゴルーキーがロストーフ公となったのが1096年でなかったとしても、この時ヴャチェスラーフの後任として就任しているはずである。
この年か翌年、スヴャトスラーフの跡を継いでペレヤスラーヴリ公となったのは、ロマーンではなくヤロポルクであった。
20も年少の八男アンドレイ善良公がまだ登場しないのはいいとしても、ロマーンは一体どこで何をしていたのだろう。
これからすると、ロマーン・ヴラディーミロヴィチはよほど不出来だったのか、父から嫌われていたのか。
1118年、父がヤロスラーフ・スヴャトポールチチを追放し、ヴラディーミル=ヴォルィンスキーを占領。ロマーン・ヴラディーミロヴィチがその公とされた。しかしわずか1年後には死去。公としての事績もまったく知られていない。