リューリク家人名録

ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ «ヴェリーキー»

Мстислав Владимирович "Великий"

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1088-95、95-1117)
ロストーフ公 князь Ростовский (1095)
ベールゴロド公 князь Белгородский (1117-25)
キエフ大公 великий князь Киевский (1125-32)

生:1076−スモレンスク
没:1132.04.15

父:キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフキエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ
母:ギータ (イングランド王ハロルド2世)

結婚①:1095
  & クリスティーナ -1122 (スウェーデン王インゲ1世年長王)

結婚②:1122−キエフ
  & リュバーヴァ -1167 (ノーヴゴロド市長ドミートリー・ザヴィードヴィチ)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
クリスティーナと
1フセーヴォロド-1138ノーヴゴロドルーツク公スヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチ
2イジャスラーフ1097-1154ヴォルィニアグネス1115-51皇帝コンラート3世
3インゲボルグ1100-37聖クヌード・ラヴァルド1096-1131南ユラン(シュレスヴィヒ)公
4マルムフリード1105-78シーグル1世十字軍王1090-1130ノルウェー王
エーリク2世記憶王1090-1137デンマーク王
5アガーフィヤ/マリーヤ-1179フセーヴォロト・オーリゴヴィチ1094-1146チェルニーゴフ公
6ログネーダヤロスラーフ・スヴャトポールチチ-1123ヴォルィニ公
7クセーニヤ(?)ブリャチスラーフ・ダヴィドヴィチイジャスラーヴリ公
8ロスティスラーフ1110-67スモレンスク
ドブロデーヤアレクシオス? アンドロニコス?皇帝アレクシオス1世? イオアンネス2世?
母親不詳
9スヴャトポルク-1154ノーヴゴロド
?ヤロポルク-1149
リュバーヴァ・ドミートリエヴナと
10エヴフロシーニヤ1130-86ゲーザ2世1130-61ハンガリー王
11ヴラディーミル1132-71ルーツククロアティア総督ベロシュ

第8世代。モノマーシチ。洗礼名フョードル。ヴラディーミル・モノマーフの長男。

 かれの名については、若干問題がある。
 スノッリ・ストゥルルソンによると、ノルウェー王シーグル十字軍王はMalmfrid Haraldsdatterという女性と結婚したという。この名は「ハーラルの娘マルムフリード」という意味で、父親というのが Holmgard の王 «Harald Waldemarsson» とされる(「ヴァルデマールの息子ハーラル」)。これがどうやらムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチらしい。
 このほか、北欧のサガやドイツの年代記などでも、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは «ハーラル»、«ハラルト» などと呼ばれている。
 なぜ北欧やドイツでムスティスラーフが «ハーラル» と呼ばれているのかが不明。リューリコヴィチ伝統の異教的な名としてはムスティスラーフがあるし、キリスト教徒としての洗礼名としてはフョードルがある。ハーラルという名までつけられる余地はないはずだが。もっともこの名の出所は明らかで、祖父のイングランド王ハロルド2世にちなんだもの。
 ちなみに «ハーラル» は北欧的な読みで、ロシア語では «ガラリド Гаральд» ないし «ハラリド Харальд» と発音される(ロシア語には h の音が存在しないので、г または х で代用される。また外国語なので、アクセントの位置はまちまち)。

 1088年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがノーヴゴロドを去ってトゥーロフ公になると、祖父キエフ大公フセーヴォロト・ヤロスラーヴィチによりノーヴゴロド公に。

 1093年、フセーヴォロト・ヤロスラーヴィチの死で、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公に就任。おそらくこれに際して、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは父からロストーフとスモレンスクを委ねられる。ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチが委ねられたのはロストーフだけで、スモレンスク公となったのは弟のイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチだともされる。いずれにせよ、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは若干17にして、ノーヴゴロドも含めて北ルーシの広大な地域を支配下に収めたことになる。
 なお、この時期の諸公の配置には文献により少々混乱が見られる。ノーヴゴロド公位も、この時にムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチからスヴャトスラーヴィチ一族のダヴィド・スヴャトスラーヴィチに譲られたとする説もある。

 1094年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが、父からセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキー)とムーロムを奪う。父はオレーグ・スヴャトスラーヴィチと講和し、その領有を認めた。
 1095年、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはロストーフへ。ダヴィド・スヴャトスラーヴィチノーヴゴロド公に。ただし上述のように、これは1093年の出来事だとする説もある。
 この年(1095年)のうちにダヴィド・スヴャトスラーヴィチがノーヴゴロドを去ってスモレンスクを奪取(奪回?)。ノーヴゴロド市民の要請で、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチが再度ノーヴゴロド公になる。この年、クリスティーナと結婚。
 これに対して、弟のイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチがムーロムを奪う。さらに1096年には父がオレーグ・スヴャトスラーヴィチをチェルニーゴフから追った。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチはムーロムに侵攻。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを破ってこれを占領すると、さらに北上し、ロストーフとスーズダリを占領した。これに対してムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはノーヴゴロド軍を率いて出陣し、ロストーフ & スーズダリを奪回する。さらにクリャージマ河畔の戦いで、弟ヴャチェスラーフとともに、オレーグ・スヴャトスラーヴィチを破った。さらにムーロム、リャザニへ軍を進め、両都市を屈服させる。
 この一連の騒動は、祖父の代からイジャスラーヴィチとモノマーシチが覇権を握り、スヴャトスラーヴィチ兄弟をはじめとする一族を締め出していたことに起因する。事態を収拾しようと、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは父に、オレーグ・スヴャトスラーヴィチとの講和を提案した。この提案を受けて父は、1097年、リューベチに諸公会議を招集。各自に «ヴォーッチナ(父祖の地)» の世襲権を認めて(具体的にはスヴャトスラーヴィチ兄弟にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを与えて)、一族間の内紛を終結させた。
 なお、この騒動に懲りたのか、父はロストーフをヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ、あるいはユーリー・ヴラディーミロヴィチに委ねたらしい。ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはノーヴゴロドだけに専念することになった。

 ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、一瞬ダヴィド・スヴャトスラーヴィチに譲った以外、29年間にわたってノーヴゴロド公を務めた。これは、はるか後にモスクワ大公ヴァシーリー2世が名目上兼任した37年間に次ぐ歴代2位の記録となる。当時はまだ市民(ボヤーリン)がヴェーチェ(民会)に依って公の権力と対峙する、という構図は確立されておらず、それがムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチに公位を維持させた要因ともなったかもしれないが、しかし同時に、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ自身がノーヴゴロド市民に愛されていた事実も見逃せない。
 1102年、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチが、自分の息子をノーヴゴロド公にしようとムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチをキエフに召喚する。しかし付き添ってきたノーヴゴロド市民がこれに反発し、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチを連れてノーヴゴロドに帰ってしまった。
 かれの治世に、ノーヴゴロドは、デティーネツ(クレムリン)が拡充されるなど、さらなる発展を遂げた。

 1111年、父とともにポーロヴェツ人と戦う。さらにノーヴゴロド軍を率いてチューディ人と戦う。
 1113年、父がキエフ大公に就任するが、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの地位には変化なし。
 1116年、父大公によりリヴォニアに派遣され、メドヴェジヤ・ゴロヴァ(現オデンペ、エストニア)を支配。

 1117年、父に呼ばれ、キエフ近郊のベールゴロド公に。事実上、父の共同統治者となる。ノーヴゴロドは長男フセーヴォロドに与える。

 1125年、父の死でキエフ大公となる。
 この時点でポーロツクにはすでに140年にわたってポーロツク系が君臨していた。また、父の代より、グロドノにはフセーヴォロド・ダヴィドヴィチ、ガーリチにはロスティスラーヴィチ兄弟、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーとムーロムにはスヴャトスラーヴィチ一族が、それぞれ根付こうとしていた。
 モノマーシチ一族では、ペレヤスラーヴリにヤロポルク、スモレンスクにヴャチェスラーフ、ロストーフにユーリー、ヴォルィニにアンドレイと弟たちが、さらにノーヴゴロドに息子のフセーヴォロドが配置されていた。
 イジャスラーヴィチ一族はトゥーロフにかろうじて生き残っていたが、それもこの年か、遅くとも1128年までにはムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチによって併合されたらしい(以後イジャスラーヴィチ一族は自前の分領を持たない)。ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、トゥーロフを弟ヴャチェスラーフに与え、代わりのスモレンスク公には息子のロスティスラーフを充てた。

 1127年、ポーロツクに侵攻。ダヴィド・フセスラーヴィチに替えてローグヴォロド・フセスラーヴィチポーロツク公とする。
 この年、娘婿のフセーヴォロド・オーリゴヴィチが叔父ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチからセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを奪う。ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはヤロポルク・ヴラディーミロヴィチとともに懲罰軍を派遣しようとするが、ボヤーリンたちが買収され、思いとどまった。クールスクはこの時フセーヴォロド・オーリゴヴィチから譲渡されたとする説もある。ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、次男イジャスラーフクールスク公とした。

 1129年、ポーロヴェツ人の地に遠征。
 この遠征に際し、ポーロツク諸公に援軍を要請したが断られていた。遠征から帰還後、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはポーロツク諸公をキエフに召喚。ダヴィド & スヴャトスラーフのフセスラーヴィチ兄弟とその家族をコンスタンティノープルに派遣(ていのいい追放)。代わりに次男イジャスラーフポーロツク公とした。
 ポーロツクはヴラディーミル偉大公の時代以来140年間にわたってイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチの子孫が排他的に継承・支配してきた土地である。その特殊な地位が、これにより決定的に崩れたと言っていいだろう。
 そしてまた、これによりモノマーシチ一族がキエフ・ルーシのほとんどを領有することになった。

11131129
キエフヴラディーミル・モノマーフムスティスラーフ偉大公
ノーヴゴロドムスティスラーフ偉大公フセーヴォロド(子)
ポーロツクポーロツク系イジャスラーフ(子)
トゥーロフブリャチスラーフヴャチェスラーフ(弟)
ヴォルィニヤロスラーフアンドレイ善良公(弟)
ガーリチガーリチ系ガーリチ系
ペレヤスラーヴリスヴャトスラーフ(弟)ヤロポルク(弟)
セーヴェルスカヤ・ゼムリャーダヴィド & オレーグフセーヴォロド
ムーロムヤロスラーフヤロスラーヴィチ兄弟
スモレンスクヴャチェスラーフ(弟)ロスティスラーフ(子)
ロストーフユーリー・ドルゴルーキー(弟)ユーリー・ドルゴルーキー(弟)

 上記の表は単純化してあるし、一部推測・想像が混じっている。
 ヴォルィニを奪ったのは父だが、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチも自らキエフ大公として、トゥーロフ(?)、クールスク(?)、ポーロツクを相次いで奪っている。フセーヴォロド・オーリゴヴィチが娘婿であることを考慮すれば、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチに連ならない公が支配するのは、辺境のガーリチとムーロムだけとなった。
 こうしてキエフ・ルーシにおけるモノマーシチ一族の覇権が確立された。
 しかしさらに詳細に見てみると、キエフ・ルーシの2大都市のうち、南のキエフはムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチが、北のノーヴゴロドは長男フセーヴォロトが支配する。そして次男イジャスラーフの支配するポーロツクも、三男ロスティスラーフの支配するスモレンスクも、キエフとノーヴゴロドとを結ぶ、いわゆる «ヴァリャーギからギリシャへの道» にあたっている。つまり一連の公領再編により、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、自分と息子たちでキエフ・ルーシの大動脈を押さえることに成功したということである。

 1131年、息子たちやフセーヴォロド・オーリゴヴィチを引き連れ、リトアニアに遠征。
 ポーロヴェツ人への遠征は知られていないが、他方で、かれの時代にポーロヴェツ人はドン、ヴォルガの彼方への追いやられたとも言われている。

 キエフの聖フョードル教会に葬られる。
 年代記によれば、かれの時代、諸公間の争いもなく、ルーシの地に平穏を保ったがゆえに «ヴェリーキー(偉大な)» と呼ばれたという。スヴャトスラーヴィチ兄弟との融和を図ったことといい、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチがリューリコヴィチ諸公の結束を保ったことは事実と言っていいだろう。とはいえ、ポーロツク諸公を追放したように、不服従の諸公は容赦なく叩きつぶした側面も否定できない。逆に言えば、それだけの実力を持った大公だったということだろう。
 かれの死で、ルーシの地は本格的に分裂時代に突入する。

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