リューリク家人名録

ユーリー・ヤロスラーヴィチ

Юрий Ярославич

トゥーロフ公 князь Туровский (1157-67)

生:?
没:?

父:ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチキエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ
母:? (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公

結婚:1144
  & アンナ公女 -1190 (グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アンナ・フセーヴォロドヴナと
1イヴァン-1168トゥーロフ
2スヴャトポルク-1190トゥーロフ
3ヤロスラーフ-1184ピンスクエフフロシーニヤ-1202トゥーロフ公ボリース・ユーリエヴィチ
4グレーブ-1196トゥーロフスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ
5ヤロポルクピンスク
?ロスティスラーフ-1228
6マルフリーダフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ
7アンナリューリク・ロスティスラーヴィチ-1215スモレンスク公

第9世代。イジャスラーヴィチ。

 両親は1112年に結婚し、1118年に別れたとされる。当然ユーリー・ヤロスラーヴィチも(母親が父の前妻でない限りは)、この間に生まれたことになる。
 しかし1118年に両親が別れ、父が分領を失ってから、ユーリー・ヤロスラーヴィチがどこでどう暮らしていたかはまったく不明。それどころか、少なくとも1140年代までの消息はまったく不明。父は1123年に分領を持たないまま死んでおり、当然ユーリー・ヤロスラーヴィチが相続すべき領土は存在しなかった。あるいは父を支援していたポーランド王ボレスワフ3世曲唇王(叔母の夫)の宮廷に居候していたか、あるいは母方の誰かを頼っていたか。
 と言うのも、1120年代に叔父のブリャチスラーフ・スヴャトポールチチ(あるいはその弟のイジャスラーフ)が死んで、イジャスラーヴィチ一族で分領を持つ者はひとりもいなくなったと思われるのだ。それどころか、記録が確かな範囲に限れば、イジャスラーヴィチ一族に属する人物はユーリー・ヤロスラーヴィチただひとりになったと思われる。
 母方の祖父がムスティスラーフ偉大公であればそれも有力なコネにはなったろうが、そのムスティスラーフ偉大公も1132年には死去。この時点でユーリー・ヤロスラーヴィチがいくつであったかはわからないが、これにより頼るべき伝手もなくなった。

 1144年にグロドノ公の娘と結婚したとされるが、もしこのグロドノが現ベラルーシ西端の都市ならば(異説もある)、隣国ポーランドとの関係から結ばれた婚姻かもしれない。

 一説には、この頃、ユーリー・ヤロスラーヴィチはトゥーロフ、あるいはピンスクを領有していたともされる。根拠は知らない。
 イジャスラーヴィチ一族の «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» と呼べるのはトゥーロフとヴォルィニだったが、ヴォルィニは1118年にモノマーシチに奪われて以来、歴代の公が確認されている。少なくとも1135年からは、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチやその息のかかった者が公位を占めてきている。これに対してトゥーロフは、1146年にヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが公位を失ってから、誰が公だったのかはっきりしなくなる。これはおそらく、トゥーロフそのものの重要性が低下したということだろうが、それに伴い、かつては独自の公領だったトゥーロフが、事実上キエフ公領の一部に組み込まれたということなのかもしれない。
 トゥーロフ公(あるいはピンスク公)であったにせよなかったにせよ、1140年代後半、ユーリー・ヤロスラーヴィチはユーリー・ドルゴルーキーの与党であったらしい。
 1146年以降、キエフ大公位を巡ってロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーと、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとが対立。ユーリー・ヤロスラーヴィチはユーリー・ドルゴルーキーを支援し、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと講和しようというユーリー派内の意見に強硬に反対したりもしているようだ。
 1157年、ユーリー・ドルゴルーキーが死去。少なくともこの直後には、ユーリー・ヤロスラーヴィチがトゥーロフ公であったのは確実であろう。
 ユーリー・ヤロスラーヴィチがトゥーロフを獲得したについては、ユーリー・ドルゴルーキーから与えられたとする説が一方にはあるが、他方でユーリー・ドルゴルーキーが死んだことでその息子ボリース・ユーリエヴィチ(1156年にトゥーロフ公となっていた)がトゥーロフを追われ、ユーリー・ヤロスラーヴィチがトゥーロフ公位を獲得した、とする歴史書もある。
 いずれにせよ、こうして30年前に一切の分領を失っていたイジャスラーヴィチがようやく自前の世襲領を確保した。なお、この頃からピンスクが重要性を増して、トゥーロフ=ピンスクと併称されるようになった。

 ユーリー・ドルゴルーキーの死でキエフ大公位を継いだイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、自らトゥーロフ=ピンスクを獲得したいとでも思ったか、ユーリー・ヤロスラーヴィチからトゥーロフ=ピンスクを奪おうとする。しかしユーリー・ヤロスラーヴィチは侵攻軍をよく持ちこたえ、得たばかりの分領を護った。

 1161年、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子)がトゥーロフ=ピンスクに侵攻。同盟関係にあるキエフの叔父ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチとの間にユーリー・ヤロスラーヴィチがいるのは邪魔だと思ったのだろうが、この時もユーリー・ヤロスラーヴィチは侵攻軍を撃退した。
 1162年、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとの関係が悪化したキエフ大公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと講和。ユーリー・ヤロスラーヴィチのトゥーロフ=ピンスク領有と、子孫への継承が確認された。

 年代記に最後に登場するのは1167年。

 典拠とした Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 ではヤロスラーフ・スヴャトポールチチの子とされているが、ムスティスラーフ・スヴャトポールチチの子としている史料もある。当然その場合、父称はヤロスラーヴィチではなくムスティスラーヴィチとなるし、生年も1099年以前ということになる。しかし年齢的には、1110年代生まれと考えた方が蓋然性が高いように思われる。

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