リューリク家人名録

ヤロスラーフ・スヴャトポールチチ

Ярослав Святополчич

ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公 князь Владимирский (1100-18)

生:?
没:1123

父:キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:ビザンティン皇女ヴァルヴァーラ・アレクセーエヴナ

結婚①:
  & ? (ハンガリー王聖ラースロー1世)

結婚②:1108
  & ソフィア or ユディタ? (ポーランド王ヴワディスワフ1世・ヘルマン)

結婚③:1112
  & ? (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ムスティスラーフ偉大公の娘と
1ソフィヤ-1158ロスティスラーフ・グレーボヴィチ-1165ポーロツク公
2ヴャチェスラーフ-1127クレツク
3ユーリー-1162トゥーロフアンナ-1190グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ
4プリブィスラーヴァ-1156?ラツィボル1世1110?-56?西ポモージェ公(ポーランド)

第8世代。イジャスラーヴィチ。洗礼名ヨアン(=イヴァン)?

 母親は不明。そもそもビザンティン皇女にヴァルヴァーラなどいない(と思われる)。
 生年も不明。父が1050年の生まれなので、おそらくは1070年代以降だろうとは想像される。
 1093年に父がキエフ大公となったが、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチには特段の分領が与えられた形跡はない。あるいはこの時、まだ幼かったからだろうか。もっとも、分領として与えられる領土と言っても、本領トゥーロフぐらいしかなかったが。

 1099年、ガーリチのロスティスラーヴィチ兄弟と戦う父により、ハンガリーに派遣される。使命を果たし、カールマーン蔵書家王の率いるハンガリー軍を連れ戻った。
 あるいはこの時、ハンガリー王女と結婚ないし婚約したのかもしれない。
 なおハンガリー軍はダヴィド・イーゴレヴィチに敗北し、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチはポーランドに逃亡した。

 1100年、ヴィティチェヴォでの諸公会議により、ダヴィド・イーゴレヴィチからヴラディーミル=ヴォルィンスキーが没収され、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチに与えられた。
 1101年に父がブレスト公ヤロスラーフ・ヤロポールチチ(従兄弟)からブレストを取り上げ、キエフに監禁。ヤロスラーフ・ヤロポールチチは1102年に逃亡するが、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチがこれを捕らえ、再びキエフに連行した。

 1111年、父に従い対ポーロヴェツ人遠征に従軍。

 1112年、ヤトヴャーギ人に遠征。勝利する。

 1113年、父が死去。キエフ大公位はヴラディーミル・モノマーフが継いだ。なお、父が領有していたトゥーロフ公領がどうなったかははっきりしない。ここはイジャスラーヴィチ一族の «ヴォーッチナ(父祖の地)» であったが、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチが継いだ形跡は特に見られない。あるいは異母弟のブリャチスラーフ・スヴャトポールチチが継いだか。

 南隣のガーリチを支配するロスティスラーヴィチ兄弟の領土を狙い、さらにはヴラディーミル・モノマーフとも対立。決定的な対立の契機となったのは、1117年にヴラディーミル・モノマーフが、長男のムスティスラーフ偉大公をノーヴゴロドからキエフ近郊のベールゴロドに呼び寄せたことだと言われる。ヤロスラーフ・スヴャトポールチチはこれを、ヴラディーミル・モノマーフキエフ大公位をムスティスラーフ偉大公に譲ろうとしている兆候と見たわけだが、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチもまた父がキエフ大公であったから、キエフ大公位を継ぐ資格を有していた。ムスティスラーフ偉大公の生年は1076年であり、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチとどちらが年長か微妙なところだが、ヴラディーミル・モノマーフからムスティスラーフ偉大公へと父子でキエフ大公位が世襲されるとあれば、心穏やかではいられなかったろう。
 1117年、ヴラディーミル・モノマーフに召喚されるが、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチはこれを無視。ヴラディーミル・モノマーフチェルニーゴフ公ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ、ロスティスラーヴィチ兄弟とともにヴラディーミル=ヴォルィンスキーを攻囲。ヤロスラーフ・スヴャトポールチチは屈服した。

 1118年、妻(ヴラディーミル・モノマーフの孫娘)を追放し、妹婿のポーランド王ボレスワフ3世曲唇王に接近してヴラディーミル・モノマーフと対立。しかし再びヴラディーミル・モノマーフにヴラディーミル=ヴォルィンスキーを攻められ、ポーランドに逃亡した。これによりヴォルィニはヴラディーミル・モノマーフに没収され、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチは領土を失った。

 1121年、ボレスワフ曲唇王と同盟してチェルヴェニに侵攻。しかし現地の代官に撃退される。

 1123年、ヴォルィニに侵攻。ポーランド・ボヘミア・ハンガリー軍を率い、さらには当時ボレスワフ唇曲王に従属していたロスティスラーヴィチ兄弟もこの攻撃に加わった。ヴラディーミル=ヴォルィンスキーにアンドレイ善良公ヴラディーミル・モノマーフの子)を攻囲するが、戦死。

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最終更新日 02 02 2012

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