リューリク家人名録

ムスティスラーフ・イズャスラーヴィチ

Мстислав Изяславич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (-1067)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1069)

生:?
没:1069

父:キエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:ゲルトルーダ/エリザヴェータ (ポーランド王ミェシュコ2世)

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ロスティスラーフ-1093ブレスト

第7世代。イジャスラーヴィチ。

 生年は不明。ただし、弟と思われるスヴャトポルクが1050年の生まれとされているので、それより数年前か。両親の結婚が1044年頃と思われるので、1040年代後半と見ていいだろう。
 厳密にはイジャスラーヴィチ3兄弟の誰が兄で誰が弟かははっきりしないが、すでに1060年代後半にノーヴゴロド公となっているムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが長男と見て間違いはあるまい。

 なお、イジャスラーヴィチ3兄弟の母親については異説がある。
 父は1044年頃にゲルトルーダと結婚している。ゲルトルーダは父が死んだ後も生き続けており、離婚したとも考えられないため、父の正妻はゲルトルーダひとりと考えるべきだろう。
 ところがゲルトルーダのものとして残されている祈祷書には、ヤロポルク・イジャスラーヴィチが「唯一の息子」と記されているらしい。だとすると、ムスティスラーフとスヴャトポルクのふたりは別の女性から生まれた息子ということになり、それはつまりふたりが私生児だということを意味する。事実そう考える学者もいる。
 しかしキリスト教の導入から100年、どの程度キリスト教がルーシに根付いていたかはわからないが、私生児がキエフ大公になり得るだろうか。1093年にスヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公となった際には、一族はおろか教会関係者からも異論らしきものが挙がった形跡はない。おそらく祈祷書の記述が間違っていたのか、あるいはスヴャトポルクとすべきところをヤロポルクとしてしまったのか(当時生き残っていた「唯一の息子」がスヴャトポルク)。

 ノーヴゴロド公となったのがいつかははっきりしない。しかし、1054年に祖父が死に、父がキエフ大公となってノーヴゴロドを後にした時に、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが後任として残された、とする説もある。
 ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが1054年にノーヴゴロド公になったにせよならなかったにせよ、父はオストロミールという代官を派遣してノーヴゴロドの統治を委ねている。おそらく当時まだ10歳にもなっていなかったと思われるムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが公として実際に権力を握ったのは、早くても10年程あとのことだろう。
 なお、このオストロミールは1057年頃にチューディ人遠征に派遣されて戦死している。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがノーヴゴロド公となったのはこの後だと考えることもできるだろう。

 1067年、ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがノーヴゴロドに侵攻。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはこれを迎え撃つが大敗を喫し、キエフの父のもとに逃亡した。ノーヴゴロドはフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチに奪われる。
 これに対して父を筆頭に当時ルーシを分割支配していたヤロスラーヴィチ兄弟がフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを破ってノーヴゴロドを奪回。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを捕らえた。

 1068年、キエフで市民が蜂起。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを監禁から解放し、キエフ大公に就けると、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは父とともにポーランドに逃亡。
 ポーランド軍とともに帰還した際には、屈服したキエフ市民の要請に応えて、父はポーランド軍を郊外に残したまま従士団だけを連れてキエフに入城することに同意した。この時、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが先遣部隊としてキエフに送られる。
 一足先にキエフに入ったムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを解放した市民を処刑し、その他多数のキエフ市民を、«罪» の有無にかかわらず、あるいは殺し、あるいはその目をつぶした。

 1069年、父がフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを破り、ポーロツクを占領。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがポーロツク公とされる。

 没年は正確には不明。ポーロツク公となってすぐに死んだとされており、おそらくそれは1069年中のことだったろうと思われる。

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