イジャスラーヴィチ

リューリク家の分流の1。
 イジャスラーヴィチとはつまりヤロスラーフ賢公(5)の次男イジャスラーフ(6)の子孫。主な分領の名からトゥーロフ系と呼ばれることも多い。なお、イジャスラーヴィチという言葉そのものは「イジャスラーフの子ら、子孫」という程度の意味なので、これ以外の意味で使われることもある。

 ヤロスラーフ賢公(5)の長男ヴラディーミル(6)は父に先立っており、父の死後キエフ大公位を継いだのはイジャスラーフ(6)だった。この時、ふたりの弟とキエフ・ルーシを分割。大雑把に言って南西部(キエフトゥーロフヴォルィニガーリチ)をイジャスラーフ(6)が領有した。やがて弟たちと内紛を始め、何度もキエフ大公位を失う。
 イジャスラーフ(6)の死後、息子たちはトゥーロフヴォルィニガーリチを確保し、スヴャトポルク(7)は従兄弟ヴラディーミル・モノマーフ(7)の支持を得てキエフ大公となる。大雑把に言って1077年から1113年までは、イジャスラーヴィチはモノマーシチとともにキエフ・ルーシの覇権を握っていた。
 しかしその陰で、イジャスラーヴィチは領土を次々に失っていく。ガーリチはロスティスラーヴィチ兄弟(8)に、ヴォルィニダヴィド・イーゴレヴィチ(7)に奪われる。一旦はヴォルィニを奪還するものの、ヴラディーミル・モノマーフ(7)と対立したヤロスラーフ・スヴャトポールチチ(8)が失ってしまう。さらに1125年頃にトゥーロフすらも失い、イジャスラーヴィチは分領を持たない一族となってしまった。この頃はおそらくユーリー・ヤロスラーヴィチ(9)以外の一族も死に絶えており、言わば一族は存亡の危機に陥ったと言えるだろう。

 ユーリー・ヤロスラーヴィチ(9)がトゥーロフ公に返り咲くのは1157年になってから(それ以前とする説もあるが)。以後、イジャスラーヴィチはトゥーロフ=ピンスク公領を世襲する。
 ただしすでにトゥーロフ自体没落傾向にあり、さらに分領へと細分化される傾向をトゥーロフ=ピンスクも免れることはできなかった。イジャスラーヴィチからもこれといった傑物は現れず、早くも12世紀末にはちらほら名前が散見されるだけになり、それぞれの分領も血縁関係もわからなくなる。それどころか中心都市トゥーロフの公については名前すらもほとんど見られない。
 13世紀に入ると西のヴォルィニや北東のスモレンスクに圧迫されて、モンゴルの襲来後はほぼ完全に歴史の表舞台から姿を消す。1292年を最後に年代記には登場せず、リトアニアがこの地域に進出してきた14世紀前半には、一族の存在すら確認されていない。
 この子孫とされる家系は存在するが(スヴャトポルク=チェトヴェルティンスキー公家、オストロジュスキー公家)、必ずしも血縁関係は明確ではない。

 以下、スタイルシートで家系図を示す。環境次第では(正確に)表示されない。悪しからず。(正確に)表示されない場合は、こちらの画像を。
 赤枠はトゥーロフ=ピンスク公。

(6)
(7)
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イジャスラーフ
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最終更新日 03 05 2013

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