アレクサンドル・グレーボヴィチ
Александр Глебович
ドゥブローヴィツァ公 князь Дубровицкий
生:?
没:1223.06.01
父:トゥーロフ公グレーブ・ユーリエヴィチ (トゥーロフ公ユーリー・ヤロスラーヴィチ)
母:? (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
結婚:
& ? (スモレンスク公ムスティスラーフ老公)
子:?
第11世代。イジャスラーヴィチ。
両親の結婚は1189年、父の死は1195年とされるので、アレクサンドル・グレーボヴィチの生年は1190年代前半ということになる。
父の死後のトゥーロフ=ピンスクについては情報量が極端に少なく、いくつかの名前が散見されるにすぎない。アレクサンドル・グレーボヴィチは1223年の時点でドゥブローヴィツァ公とされているので、ほかにトゥーロフ公がいたはずだが、よくわからない。
1223年、カルカ河畔の戦いで、舅とともに捕虜となる。モンゴル人はかれらの上に板を張り、そこで祝宴を催したという。
なお、この時アレクサンドル・グレーボヴィチとともにタタールの捕虜となった中に、年長の親族アンドレイというのがいた。イジャスラーヴィチ一族の年長ということだろうから、おそらくはこれがトゥーロフ公であったのではないかと想像される。
かれの子孫がのちのスヴャトポルク=チェトヴェルティンスキー公家だと考える学者もいる。