グロドノ系

リューリク家の分流の1。グロドノ系とは要するにグロドノを分領とする系統ということだが、ここでは便宜上、さかのぼってヤロスラーフ賢公(5)の子イーゴリ(6)を始祖とするその一族を指す。

 イーゴリ・ヤロスラーヴィチ(6)は、ヤロスラーフ賢公(5)が死んだ時点でまだ幼少だったため、わずかな所領を与えられただけだった。しかも若年で死んでいるため、遺児ダヴィド・イーゴレヴィチ(7)には継承すべき土地がなかった。このためダヴィド・イーゴレヴィチ(7)は、スヴャトスラーヴィチ一族の領土であるトムタラカーニを奪う。一旦はキエフ大公と講和してヴォルィニを与えられるが、やがてガーリチ諸公と喧嘩を始め、次にはガーリチ諸公と同盟してキエフ大公と争い、ポーロヴェツ人を率いてハンガリーと戦い、といったように、精力的に周辺諸勢力と戦う。
 この系統が実際にグロドノを領有したのは、その子とされるフセーヴォロド(8)から。しかし厳密に言えば、フセーヴォロド(8)がダヴィド・イーゴレヴィチ(7)の子か否かはっきりしない。その後、フセーヴォロド(8)、ボリース(9)、グレーブ(9)、ムスティスラーフ(9)と続くが、年代記の記録も断片的で、かれらについてはっきりしたことはわからない。それどころか、かれらの領有した «グロドノ» が正確にどこだったかも実はよくわかっていない(複数の候補地がある)。
 ムスティスラーフ(9)の後、歴史の表舞台から姿を消した。1241年のモンゴルの襲来でユーリー・グレーボヴィチなる公が戦死したとされているが、これがグロドノ系に属するのか否かは不明。おそらく末裔は現存していないものと思われる。

 以下、スタイルシートで家系図を示す。環境次第では(正確に)表示されない。悪しからず。(正確に)表示されない場合は、こちらの画像を。
 赤枠はグロドノ公。

(6)
(7)
(8)
(9)

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最終更新日 03 05 2013

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