イヴァン・ミハイロヴィチ・ヴォロトィンスキー
Иван Михайлович Воротынский
公 князь
ボヤーリン боярин (1592-)
生:?
没:1627
父:ヴォロトィンスク公ミハイール・イヴァーノヴィチ (ヴォロトィンスク公イヴァン・ミハイロヴィチ)
母:?
結婚:
& マリーヤ公女 -1628 (ピョートル・イヴァーノヴィチ・ブイノーソフ=ロストーフスキー公)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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マリーヤ・ペトローヴナと | ||||||
1 | アレクセイ | 1610-42 | マルファ | イヴァン・ロマーノフ |
第21世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。
1573年、父が死去。イヴァン雷帝に処刑されたとも言われるが、これにより父祖伝来の分領ヴォロトィンスクはモスクワ大公領に併合され、イヴァン・ミハイロヴィチも分領公ではなくなった(ただし実質的には父祖も単なる勤務公となっていたが)。
父の死後、ムーロム総督(1573-)、トゥーラ総督(1582-)などを歴任。
イヴァン雷帝の死後、ボリース・ゴドゥノーフと対立してシュイスキー公一族を支持し、イヴァン・シュイスキー公とともに失脚。ニージュニー・ノーヴゴロドに追放された。
1592年、自身の権力確立に自信を持ったのか、ボリース・ゴドゥノーフに赦され、あまつさえボヤーリンとされた。カザニ総督(1592-98)。ボリース・ゴドゥノーフの即位にともないモスクワに呼び戻され、以後その死までかれに忠実だった。
1605年、ボリース・ゴドゥノーフが死ぬと、イヴァン・ミハイロヴィチ公は偽ドミートリー1世側に寝返り、トゥーラのかれのもとに駆けつけた。とはいえ1606年にはその廃位に関与している。
ヴァシーリー4世・シュイスキーの治下では、ボロートニコフの叛乱(1606-07)の鎮圧にあたった(が敗北)。さらにおそらくこの頃、マリーヤ・ペトローヴナ公女と結婚している。彼女の姉(妹?)エカテリーナは1608年にヴァシーリー・シュイスキーと結婚してツァリーツァとなっており、こうしてイヴァン・ミハイロヴィチ公はツァーリの血縁となった。
1610年にヴァシーリー・シュイスキーを廃位すると、フョードル・ムスティスラフスキー公、アンドレイ・トルベツコーイ公、アンドレイ・ゴリーツィン公、ボリース・ルィコフ=オボレーンスキー公、イヴァン・ロマーノフ、シェレメーテフとともに «セミボヤールシチナ» を形成。モスクワの実権を握る。
当時、モスクワ近郊には偽ドミートリー2世とポーランド軍とが迫っていた。二者択一を迫られたセミボヤールシチナは、コサックを支持基盤としていること等から偽ドミートリーを忌避し、ポーランドを選択。ポーランド王ジグムント3世の王太子ヴワディスワフをツァーリとして迎えることを決めた。
しかし信仰の問題でセミボヤールシチナとジグムント3世とが対立すると、イヴァン・ミハイロヴィチ公は総主教ゲルモゲーンとともにカトリックのツァーリを否認し、ゆえにポーランド軍がモスクワにやって来ると捕らえられた。
1612年、モスクワが解放されるとともに釈放される。1613年の全国会議ではツァーリ候補にも名が挙げられた。
ミハイール・ロマーノフの下でもカザニ総督を務めたりポーランドとの交渉にあたったりと、ボヤーリンの重鎮として活動した。ただし最晩年は世俗を棄て、最後は修道士イオーナとして死んだ。