リューリク家人名録

ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ

Володарь Ростиславич

トムタラカーニ公 князь Тмутараканский (1081-83)
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский (1085-92)
ペレムィシュリ公 князь Перемышльский (1092-1124)

生:?
没:1124.03.19

父:トムタラカーニ公ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチノーヴゴロド公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ
母:ハンガリー王女

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ロスティスラーフ-1129ペレムィシュリ
2ヴラディミルコ-1153ズヴェニーゴロドハンガリー王カールマーン?
3ロマーン・ヴラディーミロヴィチ-1119ヴォルィニ公
?イリーナイサアキオス・コムネノス1093-皇帝アレクシオス1世

第8世代。ガーリチ系。

 おそらく1060年代に生まれたものと考えられる。タティーシチェフは両親の結婚を1060年代初頭としており、一方ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチはおそらくロスティスラーヴィチ3兄弟の真ん中と考えられる。
 父が死んだ1066年の時点ではまだ幼少で、父の領有していたトムタラカーニを相続できず。ただし、ロスティスラーヴィチ3兄弟が以後どこでどう暮らしたかは不明。

 1081年、ダヴィド・イーゴレヴィチとともに、トムタラカーニを攻略。キエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ(大叔父)の代官ラティボールを追い、トムタラカーニを支配した。
 1083年、ビザンティン帝国から帰還したオレーグ・スヴャトスラーヴィチにトムタラカーニから追われる。逃亡したヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチはヴォルィニを狙い、兄弟とともにヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ヤロポルク・イジャスラーヴィチと戦う。

 1085年、今度はヴラディーミル・モノマーフによりヴォルィニから追われるが、その父でもあるフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチに、代償としてのちのガーリチ(ガリツィア)を与えられた。兄リューリクペレムィシュリを、ヴォロダーリがズヴェニーゴロドを、弟ヴァシリコテレボーヴリを支配する。
 1092年、リューリクの死でペレムィシュリを相続(ただしその後もズヴェニーゴロドに住み続けたらしい)。

 1097年、リューベチ(キエフ近郊)にて開催された諸公会議で、ロスティスラーヴィチ兄弟のペレムィシュリ & テレボーヴリ支配が承認された。なお、なぜか『原初年代記』は出席者としてヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチの名を挙げていない。何らかの理由で出席できなかったのか。
 会議の後、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公となっていたダヴィド・イーゴレヴィチと弟ヴァシリコが対立。ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチは捕らえられ、1098年、ダヴィド・イーゴレヴィチにテレボーヴリを奪われた。
 ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチはダヴィド・イーゴレヴィチを攻め、講和とヴァシリコ釈放を勝ち取った。ヴォロダーリとヴァシリコのロスティスラーヴィチ兄弟は逆にダヴィド・イーゴレヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキーに攻囲。最終的に両者は和解し、以後、ダヴィド・イーゴレヴィチはロスティスラーヴィチ兄弟と協調した。

 しかし1097年から98年の戦いで、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチヤロポルク・イジャスラーヴィチの弟)がダヴィド・イーゴレヴィチを支援していた。ロスティスラーヴィチ兄弟と和解したダヴィド・イーゴレヴィチに対して、弟の恨みがあるスヴャトポルク・イジャスラーヴィチが今度は対立。
 1099年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチダヴィド・イーゴレヴィチをヴォルィニから追い、さらにロスティスラーヴィチ兄弟と対立。兄弟はスヴャトポルク軍を破る。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはハンガリー王カールマーンに支援を要請。カールマーンは援軍を率いてペレムィシュリを攻囲するが、ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチは護り抜いた。ダヴィド・イーゴレヴィチがポーロヴェツ軍を率いて駆けつけ、ハンガリー軍は撤退した。

 1100年、ヴィティチェヴォで再び諸公会議が開催される。ここでダヴィド・イーゴレヴィチは処罰された。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはロスティスラーヴィチ兄弟の処罰も求めた。諸公会議は兄弟を召喚したが、兄弟はそれに応じず。諸公は兄弟を処罰しようとしたが、ヴラディーミル・モノマーフがリューベチ会議の決議(兄弟のペレムィシュリ & テレボーヴリ支配を承認)の遵守を主張し、すべては元のままとなった。
 ヴラディーミル・モノマーフはリューベチ会議で定められた秩序の維持を目的として行動するが、本来この秩序の維持者であるべきキエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ自身が、ヴォルィニとガーリチ(ペレムィシュリ & テレボーヴリ)、すなわちかつて父イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの支配していた地域の獲得を目指しており、ダヴィド・イーゴレヴィチからヴォルィニを取り上げただけでは満足せず、ロスティスラーヴィチ兄弟からガーリチをも取り上げようと狙い続けていた。
 ロスティスラーヴィチ兄弟は、ビザンティン帝国やポーロヴェツ人との関係を強化することで、この動きを牽制しようとする。1104年にはヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチは、皇帝アレクシオス1世・コムネノスの息子イサアキオスに娘イリーナを与える(ただしアレクシオス1世の息子と結婚したのは別の娘、たとえばムスティスラーフ偉大公の娘とする説もあり、そもそもビザンティン側の史料にはアレクシオス一家とルーシ諸公との婚姻そのものが記されていない)。

 1113年のスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ死後も、イジャスラーヴィチ一族との争いは続く。1117年にはヴラディーミル・モノマーフを支援して、その遺児ヤロスラーフ・スヴャトポールチチと戦う。

 1121年、ポーランド王ボレスワフ3世唇曲王とヤロスラーフ・スヴャトポールチチが反ヴラディーミル・モノマーフ同盟を締結。ボレスワフ唇曲王は部下をペレムィシュリに派遣する。部下は、ボレスワフ唇曲王に反対する亡命者を装ってヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチに接近。かれを捕虜とする。
 弟ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチが財産をボレスワフ唇曲王に譲渡し、兄弟がボレスワフ唇曲王と反ヴラディーミル・モノマーフ同盟に加わることで、ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチは釈放された。
 1123年、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチは、ハンガリー軍・ポーランド軍を率いて、ヴラディーミル=ヴォルィンスキーからアンドレイ善良公ヴラディーミル・モノマーフの子)を追う。この時、ロスティスラーヴィチ兄弟もヤロスラーフ軍に従軍していた。

 ペレムィシュリに葬られる。

 なお、ヴォロダーリという名は、カラムジーン以来ヴラディーミル(ヴォロディーミル)のことだとされている。このため、時にはヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチではなくヴラディーミル・ロスティスラーヴィチと表記する文献にお目にかかることもある。
 ただし、そうだとすると、息子ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチはヴラディーミル・ヴラディーミロヴィチということになってしまう。父と子が同じ名を共有するのは、当時のリューリコヴィチでは一種の «禁忌» で(名前には呪術的な役割があった)、これが一般化するのは14世紀以降のことである。
 ヴォロダーリという名の言語学的な由来ははっきりしないが、それでもヴラディーミル(ヴォロディーミル)と共通しているのは前半の «ヴォロド» だけであり、後半部分は別の言葉に由来すると考えるべきだろう(あるいはヴォロダーリは «ヴォロ»+«ダーリ» かもしれない)。

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