リューリク家人名録

ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチ

Василько Ростиславич

テレボーヴリ公 князь Теребовльский (1085-1124)

生:1062?
没:1124

父:トムタラカーニ公ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチノーヴゴロド公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1イヴァン-1141ガーリチアンナキエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチ
2グリゴーリイ-1126テレボーヴリ

第8世代。ガーリチ系。

 ロスティスラーヴィチ兄弟の長幼の順は不明だが、おそらく末弟。兄たちが1060年頃の生まれと考えられるので、ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチはそれより若干後の誕生だろう。あるいは父の死んだ1066年には生まれたばかりだったかもしれない。
 年代記に初登場する1084年まで、どこでどうしていたかは不明。

 かれの名は、年代記では基本的にヴァシリコと記されている。唯一の例外が、イパーティイ年代記で一度だけヴァシーリイと記された1092年の項。言うまでもなく洗礼名だが、«異教名» は不明。
 ちなみにヴァシーリイという形がリューリコヴィチで一般化するのは13世紀から。それまではヴァシリコが一般的だった。

 1084年、ダヴィド・イーゴレヴィチ、兄ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチとともに、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを攻略。

 長兄ペレムィシュリ公リューリク、次兄ズヴェニーゴロド公ヴォロダーリとともに、ガーリチ(ガリツィア)を支配する。

 1092年、ポーロヴェツ人を率いてポーランドに侵攻。

 1097年、リューベチ(キエフ近郊)にて開催された諸公会議に出席。ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチのテレボーヴリ領有が認められた。

 リューベチ会議にて、かつて行動をともにした北隣のヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ダヴィド・イーゴレヴィチと対立。
 リューベチからテレボーヴリへの帰途、ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチはキエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチより «名の日» の祝いのためキエフに招かれる(«名の日» の祝いが文献上確認できる最初)。しかしスヴャトポルク・イジャスラーヴィチダヴィド・イーゴレヴィチに唆され、ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチに対する害意を抱いていた(ガーリチに対する野心もあっただろう)。
 のこのこキエフに赴いたヴァシリコ・ロスティスラーヴィチはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチにより監禁され、両目を抉り取られて、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイに送られる。そこにはダヴィド・イーゴレヴィチがおり、ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチは虜囚となった。テレボーヴリはダヴィド・イーゴレヴィチに占領される。

 当時スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは従兄弟のスヴャトスラーヴィチ兄弟と対立していた。さらに今回の所業に別の従兄弟ヴラディーミル・モノマーフも腹を立て、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは孤立。ロスティスラーヴィチ兄弟が優位に立つことになった。

 1098年、兄ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチダヴィド・イーゴレヴィチブージュスクにて攻囲。ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチは釈放され、兄弟はダヴィド・イーゴレヴィチと和解した。
 しかし同年、ロスティスラーヴィチ兄弟はヴラディーミル=ヴォルィンスキイに侵攻。ダヴィド・イーゴレヴィチを追うことはできず、再び和解。

 1099年、ロスティスラーヴィチ兄弟はスヴャトポルク・イジャスラーヴィチと講和。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴォルィニに侵攻し、ダヴィド・イーゴレヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキイから追う。
 しかしこの段階で、ヴォルィニ領有を望むスヴャトポルク・イジャスラーヴィチは、再びロスティスラーヴィチ兄弟と対立。以後ロスティスラーヴィチ兄弟とスヴャトポルク・イジャスラーヴィチは、ヴォルィニ領有を巡って激しい争いを繰り広げた。

 1100年、ヴィティチェヴォで再び諸公会議が開催され、最終的にダヴィド・イーゴレヴィチからヴラディーミル=ヴォルィンスキイが没収されて、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの息子ヤロスラーフに与えられた。
 この時諸公会議では、ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチからテレボーヴリを取り上げ、ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチは諸公が面倒を看ることが決められた。目を潰されたヴァシリコ・ロスティスラーヴィチには統治者としての資格なしということだったのだろうが、ロスティスラーヴィチ兄弟はこれを拒否した。

 1121年、ポーランド王ボレスワフ3世唇曲王の捕虜となった兄を釈放させるため、ボレスワフ唇曲王に財産を売却した。

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