イヴァン・ロスティスラーヴィチ «ベルラードニク»
Иван Ростиславич "Берладник"
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский (1129-45)
ガーリチ公 князь Галицкий(1145)
生:?
没:1161−ソルン or テッサロニキ(ギリシャ)?
父:ペレムィシュリ公ロスティスラーフ・ヴォロダーレヴィチ (ペレムィシュリ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
1 | ロスティスラーフ | -1189 |
第10世代。ガーリチ系。
ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチの孫との説もあるらしい。その場合、父ロスティスラーフ・ヴォロダーレヴィチがヴァシリコ・ロスティスラーヴィチの子と考えられているのか、それともイヴァン・ベルラードニクの父親は別人だと考えられているのか。
ヴォロダーレヴィチ兄弟の誕生が1100年前後と考えられるので、ロスティスラーフ・ヴォロダーレヴィチの子だとすると、イヴァン・ロスティスラーヴィチの誕生は1120年頃以降だろう。つまり父の死んだ時点で、イヴァン・ロスティスラーヴィチはまだ幼児だったと思われる。
1129年、父が死去。父はペレムィシュリ公であったので、イヴァン・ロスティスラーヴィチがそのままペレムィシュリを相続するところだが、叔父ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチと分領を交換し、イヴァン・ロスティスラーヴィチはズヴェニーゴロドを領有することになった。おそらく、この地域(のちのガーリチ)の当時中心都市だったペレムィシュリを領有したいヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチに乞われたのだろう。
1141年、ガーリチ公イヴァン・ヴァシリコヴィチが死去。その遺領をヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチが相続した。こうして、1085年以来ロスティスラーヴィチ兄弟とその子孫が領有してきた地域(のちのガーリチ)は、イヴァン・ロスティスラーヴィチの支配するズヴェニーゴロドを除いてヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチが領有することになった。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチとしては当然残るズヴェニーゴロドの併合を目指す。他方でイヴァン・ロスティスラーヴィチとしては、叔父がズヴェニーゴロド以外の領土を独り占めしたことに不満を覚える。
1144年、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチはキエフ大公フセーヴォロト・オーリゴヴィチに大敗を喫する。これに乗じた反対派が、1145年、イヴァン・ロスティスラーヴィチをガーリチに招聘し、公とする。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチはガーリチを攻囲。イヴァン・ロスティスラーヴィチは逃れ出て、ドナウへ。そこからキエフのフセーヴォロド・オーリゴヴィチのもとに逃亡した。
その後イヴァン・ロスティスラーヴィチはモルドーヴァの都市ベルラドへ。ここはトムタラカーニ同様、様々な無法者や土地を持たぬ諸侯の溜まり場となっていた。イヴァン・ロスティスラーヴィチはかれらを従士として雇い、いわば傭兵隊長としてルーシ諸公に雇われる(このため «イヴァン・ベルラードニク» と呼ばれる)。勤務対象が一定しなかったことを除けば、のちの «勤務公» の先駆け的存在と言えるかもしれない。
1146年、ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチに仕える。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチはユーリー・ドルゴルーキーと結んで、キエフ大公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ、チェルニーゴフ公ヴラディーミル & イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ兄弟と戦うが、敗北し、ヴャーティチ人の森に逃亡。イヴァン・ロスティスラーヴィチはこの時、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを棄ててスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに乗り換えた。
1149年には、ユーリー・ドルゴルーキーに仕えている。ユーリー・ドルゴルーキーによりノーヴゴロドに貢納を強制しに派遣されるが、ノーヴゴロド軍に敗北。
この年、ユーリー・ドルゴルーキーはキエフ大公に。キエフ大公としてガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチの支援を必要としたユーリー・ドルゴルーキーは、依然としてイヴァン・ロスティスラーヴィチを追っていたヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチに、イヴァン・ロスティスラーヴィチを引き渡すことを決意。イヴァン・ロスティスラーヴィチはスーズダリで捕らえられ、キエフに連行された。そこにはヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチの使者が待っていたが、この時、府主教を筆頭に教会関係者が介入。ユーリー・ドルゴルーキーに、イヴァン・ロスティスラーヴィチ引渡しを思いとどまるよう説得した。イヴァン・ロスティスラーヴィチは、枷をはめられたままだったが、再びスーズダリに送り返される。しかしこれを知ったイジャスラーフ・ダヴィドヴィチが、イヴァン・ロスティスラーヴィチを奪取。
その後イヴァン・ロスティスラーヴィチは、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチの下で自由を得たらしく、1157年にユーリー・ドルゴルーキーが死に、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチがキエフ大公となった時点では、その下で活躍していた。これに対して、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチの後を継いでガーリチ公となったヤロスラーフ・オスモムィスルは、ルーシ諸公、ハンガリー王、ポーランド諸侯に呼びかけ、イヴァン・ロスティスラーヴィチを庇護しないよう要請。これに対してイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは依然イヴァン・ロスティスラーヴィチを庇護し続け、ルーシ諸公、ハンガリー王、ポーランド王からの要求を蹴り続けた。
しかしこれに危惧を覚えたイヴァン・ロスティスラーヴィチは、ポーロヴェツ人のもとに逃亡。かれらを率いてドナウを荒らしまわる。その後、ガーリチに侵攻。しかし都市を占領しようとはせず、相変わらず略奪に明け暮れた(いくつかの都市を奪って支配した、ともされる)。
しかしヤロスラーフ・オスモムィスルに敗北し、改めてイジャスラーフ・ダヴィドヴィチを頼るが、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチもキエフ大公位を巡る争いに忙殺され、あまつさえ1162年(?)には戦死してしまう。
イヴァン・ロスティスラーヴィチの最期についてはよくわかっていないが、ビザンティン帝国に逃れてそこで死んだとも言われる。