リューリク家の末裔

グルーホフ系オーリゴヴィチ

オドーエフスキイ公家 Одоевские

 オドーエフの分領公。
 1352年、全ヨーロッパ規模で黒死病が流行していたが、グルーホフもこれに冒された。グルーホフ公ロマーン・セミョーノヴィチは、ペストで荒廃したグルーホフを棄ててノヴォシーリに遷都。その後キプチャク・ハーンにノヴォシーリを攻略され、オドーエフに遷都。オドーエフスキイ家の始祖となる。
 ロマーン・セミョーノヴィチはモスクワ大公に仕えていたが、その子ユーリイ・ロマーノヴィチはリトアニア大公に鞍替え。さらにその子セミョーン・ユーリエヴィチはモスクワ大公に。

 ニキータ・イヴァーノヴィチ公(-1689)はアレクセイの治世に軍人として活躍。フョードル3世の治世では、外交政策を牛耳った。
 アレクサンドル・イヴァーノヴィチ公(1802-39)はデカブリストだが、グリボエードフ、ルィレーエフ、オガリョーフ、レールモントフといった交友関係から名が残っているだけ。
 ヴラディーミル・フョードロヴィチ公(1803-69)は作家だが、日本ではあるいは純文学読みよりもSFファンにその名を知られているのではないだろうか。

 ヴラディーミル・フョードロヴィチ公の死とともにオドーエフスキイ家は断絶した。その後、アレクサンドル2世の勅許によりマースロフ家がオドーエフスキイの姓と公位を継ぐことが認められた。

ヴォロトィンスキイ公家 Воротынские

 ヴォロトィンスクの分領公。ノヴォシーリ公ロマーン・セミョーノヴィチの孫フョードルを始祖とするが、その父についてはレフとする説とユーリイとする説のふたつがある。

 フョードル・リヴォーヴィチ公(あるいはフョードル・ユーリエヴィチ公)まではリトアニア大公に仕えていた。
 その孫イヴァン・ミハイロヴィチ公(-1535)は、リトアニアを見限りモスクワ大公に仕えるようになる。以後、その分領のあるオカ河上流域で、ほかの分領公領を侵食し、それが直接モスクワ大公の勢力圏拡大につながった。
 その子ミハイール・イヴァーノヴィチ公(1510-73)はイヴァン雷帝の下で、2度にわたってクリム・ハーン軍を撃退した軍司令官として名を馳せた。しかしその一方で政治信条的にイヴァン雷帝と対立し、最後は処刑されたとも言われる。
 その子イヴァン・ミハイロヴィチ公(-1627)は反ヴァシーリイ・シュイスキイ派の急先鋒で、ボロートニコフの農民叛乱にも加わって自ら農民軍を指揮した。«セミボヤールシチナ»(7人の大貴族によるツァーリなき政府)の一員となる。

 1679年、リューリクから数えて第23世代目にあたるイヴァン・アレクセーエヴィチ公の死とともに、ヴォロトィンスキイ家は断絶した。

カラーチェフ系オーリゴヴィチ

エレーツキイ公家 Елецкие

 エレーツの分領公。エレーツ公フョードル・イヴァーノヴィチを初代とする。
 都市エレーツ自体は、チェルニーゴフ公領から14世紀にはリャザニ公領に移っていた。このためフョードル・イヴァーノヴィチ以下初期の公は、リャザニ大公に半従属の状態にあった。もっとも、都市エレーツはキプチャク・ハーンの本領に接する位置にあったため、むしろキプチャク・ハーンの領土と言った方がいいかもしれない。1395年にはティムールによって破壊されている。
 16世紀初頭にはモスクワ領に。

 モスクワ大公の勤務公となった頃、ふたつの系統に分裂。イヴァン・ユーリエヴィチ公の系統は19世紀半ばまで生き残ってはいるが、これといった人物を輩出していない。もっともそれを言えば、セミョーン・ユーリエヴィチ公の系統も同じことで、こちらは17世紀前半には断絶。
 確認し得る限りではひとりのボヤーリンも輩出していない。オコーリニチイ(ボヤーリンの次に位置する «側用人»)もおそらくひとりだけ。ほとんどがせいぜいストーリニク(その次に位置する «食卓係»)。公の称号はあっても、分領エレーツはタタールによって破壊され、モスクワ大公に併合されて、下級貴族として生き延びていたにすぎない。

ズヴェニゴローツキイ公家 Звенигородские

 ズヴェニーゴロドの分領公。
 その出自ははっきりしない。ズヴェニーゴロド公フョードル・アンドレーエヴィチを始祖とするのが一般的だと思われるが、その父アンドレイについては、カラーチェフ公ムスティスラーフ・ミハイロヴィチの子とする説、その子ティート・ムスティスラーヴィチの子とする説の両説がある。アンドレイがズヴェニーゴロドを分領としていたかどうかも不明。
 また、ズヴェニーゴロドという都市はキエフ・ルーシのあちこちに存在したが、この系統が領有したズヴェニーゴロドはおそらくカラーチェフの近郊かその周辺、南ロシアから北東ウクライナのいずれかにあったのだろうと想像されるものの、現在地は不明である。
 1408年、モスクワ大公の勤務公に。ズヴェニーゴロド自体はリトアニアに併合された。

 15世紀末には4つの系統に分裂。もっとも、そのうちふたつは100年と保たずに断絶している。もうひとつも17世紀中に断絶し、20世紀まで存続したのはひとつの系統のみ。それらから、リューミン=ズヴェニゴローツキイ、スピャーチイ=ズヴェニゴローツキイ、バラーシェフ=ズヴェニゴローツキイ、シーストフ=ズヴェニゴローツキイ、ズヴェンツォーフ=ズヴェニゴローツキイ、ノズドロヴァートィイ=ズヴェニゴローツキイ、トクマーコフ=ズヴェニゴローツキイといった分家を出している。
 同族のエレーツキイ公家、モサーリスキイ公家と同様、これといって歴史に名を残した人物はいない。

モサーリスキイ公家 Мосальские

 モサーリスクの分領公。Масальские とも書く(ロシア語としての発音は同じ)。ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ公を始祖とする。その3人の子から3つの系統に分かれる。
 長男ヴラディーミル公、三男セミョーン公はリトアニア大公に仕え、その子孫はリトアニア=ポーランド貴族となる(リトアニア語ではマサルスキス Masalskis、ポーランド語ではマサルスキ Masalski)。
 次男ヴァシーリイ公の子孫はモスクワ大公に仕え、コリツォーフ=モサーリスキイ公家となる。

 ヴラディーミル・ヴァシーリエヴィチ・コリツォーフ=モサーリスキイ公(-1610)はトボーリスク総督として、シベリア征服に従事。
 ヴワディスワフ・マサルスキはポーランド貴族だったが、ピョートル大帝のロシア軍の捕虜となり、正教に改宗してロシア海軍に勤務した。この系統は公の称号を認められなかったが、1862年に曾孫フョードル・フョードロヴィチにいたって公の称号が与えられた。
 イグナツィ・マサルスキ(1729-94)はヴィリニュス司教。カトリック教会再建に尽力した親露派で、第二次ポーランド分割にもかかわって民衆に殺された。

トルーサ系オーリゴヴィチ

オボレーンスキイ公家 Оболенские

 オボレーンスクの分領公。トルーサ公ユーリイ・ミハイロヴィチの子コンスタンティーンを始祖とする。14世紀以来モスクワ大公に仕える。
 多数の分家を輩出し、シチェルバートフ家、テュフャーキン家、ドルゴルーキイ家、レプニーン家などはその一部。ほかに、オボレーンスキイの家名を保持したままの、テレプニョーフ=オボレーンスキイ家、ルィコフ=オボレーンスキイ家、シチェピーン=オボレーンスキイ家、カーシン=オボレーンスキイ家などが無数にある。わたし自身全体像がつかめていないが、果たしてつかめている人間などこの世にいるのだろうか。
 もっとも、数こそ多けれ、政治、軍事、文化などの分野で名を残した人物は少ない。

 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・コソーイ公、イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・ストリガー公、ニキータ・ヴァシーリエヴィチ・フロモーイ公など、15世紀、16世紀にはそこそこ名を残した人物を輩出した。
 エヴゲーニイ・ペトローヴィチ公(1796-1865)はデカブリストの指導者のひとり。
 ヴラディーミル・ニコラーエヴィチ公(1877-1942)はモスクワ大学を卒業し、ペトログラード大学教授として革命後もソ連にとどまる。気象学研究所を創設。その初代所長(1932-40)となる。大祖国戦争に際して、レニングラード攻囲戦中に飢餓で死んだ。

シチェルバートフ公家 Щербатовы

 オボレーンスキイ公家の分家。«シチェルバートィイ Щербатый»(あばた)のあだ名で知られたヴァシーリイ・アンドレーエヴィチ公を始祖とする。

 ミハイール・ミハイロヴィチ公(1733-90)は文筆家。税務参事会議長を務めるなど公職にも就いたが、一方で著作の中で政府を批判してもいる。膨大なロシア史を論じた著作も残している。

ドルゴルーキイ公家 Долгорукие

 オボレーンスキイ公家の分家。ドルゴルーコフ Долгоруковы ともいう。イヴァン・アンドレーエヴィチ公が «ドルゴルコーイ Долгорукой»(長い手の)と呼ばれ、これが家名となった。ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイとは何の関係もない。ドストエーフスキイが『未成年』で使っていたので、個人的には「ロシア貴族と言えばドルゴルーキイ」と刷り込まれている。
 イヴァン・アンドレーエヴィチ公の孫の代から4つの家系に分かれる。

 第1系統で知られる名前を挙げてみる。
 ヤーコフ・フョードロヴィチ公(1639-1720)はピョートル大帝の個人的友人だったが、政治史的にはさほど重要ではない。
 その弟グリゴーリイ・フョードロヴィチ公(1656-1723)はロシア軍を率いてポーランドに乗り込み、«沈黙議会» を演出したことで知られる。
 その子アレクセイ・グリゴーリエヴィチ公(-1734)はピョートル2世の養育係で、その治世における最高実力者。
 その従兄弟ヴァシーリイ・ルキーチ公(1670?-1739)はピョートル大帝以来外交官として活躍したが、1730年、女帝アンナの帝権を制限しようとして失脚した。これに連座して、この系統のドルゴルーキイはことごとくが権力の座からすべり落ちた。その後復活するが、もはや中央政界での活躍は見られない。
 没落した地方貴族に成り下がったこの系統に生まれたエカテリーナ・ミハイロヴナ公女(1847-1922)は、皇帝アレクサンドル2世の愛人、のちその妃となっている。

 第2系統は1876年、これといった人物を輩出することなく断絶している。

 第3系統で最初に名をなしたのは女性で、マリーヤ・ヴラディーミロヴナ公女(-1624)がツァーリ・ミハイールの妃となっている。
 ユーリイ・アレクセーエヴィチ公(-1682)は露波戦争、ラージンの乱鎮圧などで活躍した軍人。1682年の銃兵の叛乱で殺されたエピソードは有名。
 ヴァシーリイ・ヴラディーミロヴィチ公(1667-1746)はピョートル大帝の下で軍人として活躍。しかし皇太子アレクセイに接近し、失脚。その後復権して元帥。女帝エリザヴェータの時代でも軍の重鎮として活動した。
 その甥ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ公(1722-1782)も軍人として活躍。1771年にはクリム・ハーン国を占領し、クルィムスキイ Крымский の称号を与えられた。
 ピョートル・ヴラディーミロヴィチ公(1816-68)は、ゲルツェンの『コーロコル』を筆頭に反政府系出版物を支援した出版者として有名。
 ピョートル・ドミートリエヴィチ公(1866-1945)、パーヴェル・ドミートリエヴィチ公(1866-1927)の双生児は、第一革命でカデットの中心人物として活躍。ピョートル公が第一ドゥーマの、パーヴェル公が第二ドゥーマの議員に選ばれている。パーヴェル公は革命後もソ連に潜入して反革命運動に携わり、捕らえられて処刑された。
 ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ公(1868-1918)は1914年に宮内官となって以来ニコライ2世一家と行動を共にする。トボーリスク、エカテリンブルグにも同行。皇帝一家に先立ってボリシェヴィキーに殺された。

 第4系統で名を残したのは、ポーランド軍から三位一体セールギイ修道院を護ったグリゴーリイ・ボリーソヴィチ公(-1612)ぐらいであろうか。

レプニーン公家 Репнины

 オボレーンスキイ公家の分家。イヴァン・ミハイロヴィチ公が «レプニャー Репня» のあだ名で呼ばれたことから、これが家名となった。

 アニキータ・イヴァーノヴィチ公(1668-1726)はピョートル大帝の下で軍人として活躍し、ポルタヴァの戦いでも軍中央を指揮して名を挙げた。
 しかし、最も有名なレプニーン公は最後に現れた。
 ニコライ・ヴァシーリエヴィチ公(1734-1801)はオーストリア継承戦争、七年戦争に従軍。その後ワルシャワ駐在大使(1763-69)としてポーランド政治に介入。悪名を馳せる。その後、軍隊勤務、イスタンブール駐在大使を経て地方の知事を歴任。ポーランド駐留ロシア軍司令官として再びポーランドへ。ポーランドを消滅させた後、リトアニア総督を勤める。

 ニコライ・ヴァシーリエヴィチ公の死でレプニーン家は断絶。1801年、勅許により外孫のニコライ・ヴォルコーンスキイ公がレプニーンの名を継いだ。

ヴォルコーンスキイ公家 Волконские

 ヴォルコーニ河畔の分領公。
 とはいえ、実はその素性は多分に伝説の霧に包まれていて、はっきりしないところがある。トルーサ公ユーリイ・ミハイロヴィチの子イヴァン太頭公がヴォルコーニ河畔に領土をもらったのが始まりとされている。その子フョードルは1380年にクリコヴォの戦いで戦死した。しかし、トルーサ公ユーリイの父ミハイール・フセヴォローディチ(1179-1246)から3世代の孫が1380年に壮年であったとは少々考えにくい。おそらくイヴァン太頭公とフョードル・イヴァーノヴィチとの間の数世代が失われているのだろう。
 いずれにせよ、いつの頃からモスクワ大公に仕えるようになったのかは不明だが、フョードル・イヴァーノヴィチの子孫がこんにちに続くヴォルコーンスキイ家である。

 ニコライ・セルゲーエヴィチ公(1753-1821)は、歴史的にはまったく無名である。しかし孫の小説『戦争と平和』のボルコーンスキイ公(親父の方)のモデルとなったことで名を残している。
 ピョートル・ミハイロヴィチ公(1776-1852)は皇帝ニコライ1世の重臣として活動し、宰相、元帥となっている。
 セルゲイ・グリゴーリエヴィチ公(1788-1865)はデカブリスト。ただし実力行使には反対で、1825年のデカブリストの乱にも加わらなかった。

バリャーティンスキイ公家 Барятинские

 バリャーティンの分領公。旧くはボリャーティン Борятин、ボリャーティンスキイ Борятинские とも書いたらしい(ロシア語の発音は同じ)。アレクサンドル・アンドレーエヴィチ公を始祖とする。しかしその父については諸説あり、はっきりしない(おそらくメゼツク公アンドレイ・シュティーハだと思われる)。
 その子たちはリトアニアに臣従していたが、孫たちの代には分領を失い、モスクワ大公に仕えていた。

 フョードル・ペトローヴィチ公はイヴァン雷帝、フョードル1世、ボリース・ゴドゥノーフ、偽ドミートリイ1世、ヴァシーリイ・シュイスキイ、偽ドミートリイ2世、ミハイール・ロマーノフのすべてに仕えた。ラプランドを探検したり、スウェーデンとの講和条約締結を取りまとめたりした。
 ユーリイ・ニキーティチ公(-1685)は初代キエフ総督。
 アレクサンドル・イヴァーノヴィチ公(1815-79)はカフカース総督として、シャミールの叛乱を鎮圧。

リャザニ系

プローンスキイ公家 Пронские

 プロンスクの分領公。リャザニ大公ヤロスラーフ・ロマーノヴィチの子ミハイールを始祖として、13世紀末にリャザニ大公家から分裂した。
 歴代プロンスク公は本家格のリャザニ大公と激しい争いを繰り返し、何度もリャザニ大公位を奪っている。リャザニ大公がモスクワ大公に接近したこともあってか、プロンスク公は1430年頃にリトアニアの属国となる。
 その後、いつ、どのような経緯でモスクワに併合されたかは少々曖昧だが、いずれにせよ、1521年にリャザニがモスクワに併合されたことでプロンスクの分領公領としての歴史は幕を閉じた。

 この時点でプロンスク公の系統は3つに分かれていたが、フョードル・イヴァーノヴィチ公の末裔はリトアニア貴族となる。

 イヴァン・イヴァーノヴィチ公の末裔では、一番最後のユーリイ・イヴァーノヴィチ・シェミャーカ公(-1555)がアストラハン・ハーン国併合に多大の貢献をした。しかしかれの死とともにこの系統は断絶。

 アンドレイ・イヴァーノヴィチ公の末裔は、モスクワの貴族として活躍する。歴史に名を残した、とは言い難いが、ヴァシーリイ3世からイヴァン雷帝の時代にかけて、フョードル・ドミートリエヴィチ公(-1537)とダニイール・ドミートリエヴィチ公(-1551)の兄弟、さらにピョートル・ダニイーロヴィチ公(-1577)、セミョーン・ダニイーロヴィチ公(-1584)の兄弟が、2代にわたって南方の対タタール戦線、西方の対リトアニア戦線で、軍司令官・総督として活躍した。記録に残る限りでは、17世紀後半に断絶している。

スモレンスク系

クロポートキン公家 Кропоткины

 最後のスモレンスク大公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチの甥ドミートリイ・ヴァシーリエヴィチ公を始祖とする。かれが «クロポートカ Кропотка» と呼ばれたのが家名の由来。かれはリトアニア大公に仕えたが、その子らはリトアニアを去ってモスクワ大公に仕える。

 クロポートキンと言えば、アナーキストだろう。
 ピョートル・アレクセーエヴィチ公(1842-1921)は、アムールのコサック軍団に勤務している時にゲルツェンをはじめとする革命思想に触れる。シベリア・極東の探検にも加わってロシア地理協会の書記に選ばれたりもしたが、スイスに派遣された折に第一インターナショナルの活動を知り、これに参加。«人民の中へ» 運動に加わり、逮捕されるが、脱獄して亡命。まさにこの頃、ミハイール・バクーニンが死去。ピョートル・アレクセーエヴィチ公は後を受けてアナーキズムの理論家・扇動家・組織者として活躍。
 二月革命後、40年を経てロシアに帰国。ケーレンスキイからの入閣の誘いを断り、十月革命後のボリシェヴィキーによる «赤色テロ» にも批判的だった。
 ちなみに兄アレクサンドル・アレクセーエヴィチ公(1841-86)も学生運動に参加し、革命家となる(シベリア流刑中に自殺)。

ダーシュコフ公家 Дашковы

 最後のスモレンスク大公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチの弟アレクサンドル・スヴャトスラーヴィチ公を祖とする。かれは «ダーシェク Дашек» というあだ名で知られ、これが家名となった。

 最も歴史上名を残したダーシュコフ家の人間は、実はダーシュコフ家の血を引いていない。
 ミハイール(コンドラーティー)・イヴァーノヴィチ公(1736-64)の妃エカテリーナ・ロマーノヴナ(1743-1810)は、ヴォロンツォーフ伯家の娘。夫の死後、残された子供たちを育てつつ、皇太子妃エカテリーナ・アレクセーエヴナの親友として、女帝エカテリーナ2世誕生の影の立役者となった。さらに外国をまわってフリードリヒ大王、ヴォルテール、ディドロ、アダム・スミス等と交遊。
 エカテリーナ・ロマーノヴナ公妃は帰国後、エカテリーナ2世により科学アカデミー院長(1782-94)、ロシア・アカデミー総裁(1783-94)に任命される。科学アカデミーには名目上の総裁が別にいたが(女帝エリザヴェータの愛人の弟キリール・ラズモーフスキイ)、彼女は院長という肩書きとともに実権を与えられた。またロシア・アカデミーは言うならばアカデミー・フランセーズのロシア版で、1783年に新たに創設されたもの。ロシアにおいて、女性が公職を、なかんずくその長を務めたのはこれが最初であった。彼女はふたつのアカデミーのボスとして、ロモノーソフ全集の刊行や最初のロシア語辞典の編纂、ロシア・アカデミー事典の出版などに尽力。ただし最後にはフランス革命への反動で保守化したエカテリーナ2世と対立し、失脚した。

 エカテリーナ公妃の子パーヴェル・ミハイロヴィチ公(1763-1807)の死で、ダーシュコフ家は断絶。勅許により、エカテリーナ公妃の従兄弟の子イヴァン・イラリオーノヴィチ・ヴォロンツォーフ伯(1790-1854)がダーシュコフの姓を継いだ。

ヴャーゼムスキイ公家 Вяземские

 ヴャージマの分領公。スモレンスク公ヴラディーミル・リューリコヴィチの子アンドレイ長手公を始祖とする。アンドレイ長手公はカルカ河畔の戦いでモンゴル軍の捕虜となり殺されたが、その2子よりふたつの系統が続いている。
 1405年にヴャージマはリトアニアに占領され、ヴャージマ公はリトアニア大公に仕える。しかし1493年にヴャージマがモスクワ大公に併合されると、ヴャージマ公もモスクワ大公に鞍替えした。

 アレクサンドル・アレクセーエヴィチ公(1727-93)はさほど著名ではないが、エカテリーナ2世の下で検事総長を務めた有能な官僚であった。
 ピョートル・アンドレーエヴィチ公(1792-1878)はプーシュキンの親友。

タティーシチェフ家 Татищевы

 «ターティ=イーシチ Тать-ищ»(盗人探し?)というあだ名で知られたヴァシーリイ・ユーリエヴィチを始祖とする。分領公ではなかったため、公の称号は持たない。

 ロシア史でタティーシチェフと言えば、ヴァシーリイ・ニキーティチ(1686-1750)だろう。北方戦争に従軍したり、エカテリンブルクの基盤を築いたり、アーストラハン知事を務めたりしたが、何よりも «ロシア最初の» 歴史家として名高い。
 イリヤー・レオニードヴィチ(1859-1918)はニコライ2世の側近。長くその個人的な使節としてベルリンに派遣されていた。二月革命後は皇帝一家に従いトボーリスク、エカテリンブルクに赴き、ボリシェヴィキーにより処刑された。
 ドミートリイ・ニコラーエヴィチ(1867-1919)もボリシェヴィキーに殺されたが、歴史に名を残す人物ではない。ジョルジュ・エマニュエル(1875-1957)はその私生児で、完全にフランス人。さらにその息子が、映画監督ジャック・タティ(1907-82)。

ドミートリエフ=マモーノフ家 Дмитриевы-Мамоновы

 アレクサンドル・ユーリエヴィチ・ネトシャを始祖とする。スモレンスク系の分家であり、分領を失っていたことから、公の称号は認められなかった。
 当初はドミートリエフを姓としていた。17世紀末、ほかのドミートリエフ家と区別するため、«マモーン Мамон»(富の神)のあだ名で知られた祖先グリゴーリイ・アンドレーエヴィチ(-1510)にちなんでドミートリエフ=マモーノフの名乗りが許された。

 ただしロシア史的にはロマーノフ家との関係で知られる程度か。
 イヴァン・イリイーチ(1680-1730)が、ピョートル大帝の姪と結婚。
 アレクサンドル・マトヴェーエヴィチ(1758-1803)はエカテリーナ2世の愛人となり、その後伯の称号を与えられた(ただしその子で伯家は断絶)。

ヤロスラーヴリ系

クールブスキイ公家 Курбские

 クールバの分領公。ヤロスラーヴリ公イヴァン・ヴァシーリエヴィチの子セミョーン公を始祖とする。その子フョードル公がモスクワ大公に仕えるようになる。

 フョードル・セミョーノヴィチ公は、エルマークより100年前にシベリアに遠征。ヴォグール人(マーンシ人)、ユーグラ人(マーンシ人・ハーントィ人)を服属させた。
 その子セミョーン・フョードロヴィチ公もユーグラ人遠征。またスモレンスクをリトアニアから奪回する(のち再び奪われる)。
 アンドレイ・ミハイロヴィチ公(1528-83)はイヴァン雷帝の側近で、カザン遠征でも活躍し、リヴォニア戦争の総司令官を任された。しかし敗北をきっかけにポーランドに亡命。以後イヴァン雷帝と数多くの書簡を交わし、その中でイヴァン雷帝の内政を糾弾した。
 その子ドミートリイ・アンドレーエヴィチ公(1582-?)はカトリックに改宗。以後クールブスキイ家はポーランド貴族となった(アンドレイ・ミハイロヴィチ公以外のクールブスキイ家の人間はいなかった)。
 1656年、その子カスパールがロシア軍の捕虜となり、正教に改宗してツァーリに仕える(ロシア名キリール・ドミートリエヴィチ公)。ただし、ロシア系はその子らで断絶した。

シャホフスコーイ公家 Шаховские

 ヤロスラーヴリ公グレーブ・ヴァシーリエヴィチの子コンスタンティーン公を始祖とする。«シャフ Шах» というそのあだ名が家名の由来となった。コンスタンティーン・シャフ公は早くもモスクワ大公に仕えていた。

 セミョーン・イヴァーノヴィチ公は、17世紀前半の人物。エニセイスク総督も勤めたが、何より多くの著作で知られ、当時の人々の生活を知る不可欠の資料となっている。
 ヤーコフ・ペトローヴィチ公(1705-77)はペテルブルク警察署長、宗務院総裁、元老院総裁を歴任したが、これまた当時の人々の生活ぶりを窺わせる回想録を残している。

プローゾロフスキイ公家 Прозоровские

 プローゾロフの分領公。モローガ公フョードル・ミハイロヴィチの子イヴァンを始祖とする。
 もっとも、分領公と言っても、その領土は一農村だけであった。
 なお、アクセントはお尻に置かれる場合もあってはっきりしない(プロゾローフスキイ)。

 ピョートル・イヴァーノヴィチ公は幼君ピョートル大帝の側近となり、その信任を得る。もっとも、いつ死んだのかもはっきりしないくらいだから、さほど重要な人物であったとも思えない。
 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ公(1732-1809)は軍人となって元帥の称号を与えられているが、別にナポレオン戦争に関する文献を読んでいても名前が出てくるわけでもない。

リヴォーフ公家 Львовы

 «ズバートィイ Зубатый»(歯の目立つ)とのあだ名を持つレフ・ダニーロヴィチ公を始祖とする。しかしズバートフとは名乗らず、レフにちなんでリヴォーフを家名とした。

 ゲオルギイ・エヴゲーニエヴィチ公(1861-1925)は第一ドゥーマ議員、全ロシア・ゼームストヴォ連盟議長として帝政末期の政界で活躍し、二月革命でニコライ2世が退位すると、臨時政府の初代首相となった。しかしやがてケーレンスキイに実権を奪われ、これといった功績を残していない。

 なお、帝政国歌『神よ、ツァーリを護り給え』の作曲者は、リヴォーフ公家とは何の関係もない(あちらはリトアニア出身)。

スーズダリ系

シュイスキイ公家 Шуйские

 シューヤの分領公。ヴラディーミル大公となったスーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチの子、ヴァシーリイ・キルデャーパを祖とする。ヴァシーリイ・キルデャーパの子孫を年長系、その弟セミョーン・ドミートリエヴィチの子孫を年少系と呼ぶ。
 ヴァシーリイ・キルデャーパはセミョーン・ドミートリエヴィチとともに、スーズダリ=ニジェゴロド公領を支配。しかし1393年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世が公領全土を奪う。ヴァシーリイ・キルデャーパとセミョーン・ドミートリエヴィチには、わずかにシューヤが与えられただけだった。このため、スーズダリ系の直系で、しかもほかに分家がなかったにもかかわらず、かれらはスーズダリスキイとかニジェゴローツキイではなく、シュイスキイと呼ばれた。
 その後も時々スーズダリ大公だのニージュニイ・ノーヴゴロド大公だのといった肩書きが散見されるが、しょせんモスクワ大公のお情けで分領公として生き残っているにすぎなかった。その肩書きも、1458年を最後に姿を消す。年少系のイヴァン・ゴルバートィイが最後のスーズダリ=ニジェゴロト大公となった。

 シュイスキイ一族は16世紀にモスクワ随一の家門として栄えた。
 まず年長系からは、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・ネモーイ公(-1538)が、イヴァン雷帝の幼少期にモスクワの実権を掌握した。その死後に最高権力者となったのが弟のイヴァン・ヴァシーリエヴィチ公(-1542)で、ベリスキイ家と激しい権力闘争を繰り広げ、幼いイヴァン雷帝のトラウマの原因となった。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチ公の孫イヴァン・ペトローヴィチ公(-1588)はプスコーフ防衛戦(1581-82)の英雄。イヴァン雷帝死後、権力を巡ってボリース・ゴドゥノーフ最大の政敵となった。
 ヴァシーリイ・ネモーイ公の又従兄弟イヴァン・ミハイロヴィチ・プレテーニ公(-1559)はヴァシーリイ・ネモーイ公とともに1530年代に権力を握る。
 イヴァン・プレテーニ公の弟の孫ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公(1552-1612)はスムータ(動乱)の時代にツァーリに選ばれた(ヴァシーリイ4世)。ただし«貴族のツァーリ»とみなされ、大衆の人気は得られなかった。貴族たちの支持も、かれらの要求をうまく満たすことができずに徐々に失われる。最終的には廃位され、ポーランドで死んだ。
 イヴァン・プレテーニ公の従兄弟からはスコピーン=シュイスキイ公家が分かれている。ミハイール・ヴァシーリエヴィチ・スコピーン=シュイスキイ公(1586-1610)はスムータ(動乱)時代に活躍。非常に人気が高くツァーリ候補と目された。モスクワのアルハンゲリスキイ大聖堂(歴代ツァーリの墓所)に葬られている。
 なお、ネモーイ & イヴァン兄弟の弟ドミートリイの孫はポーランドに亡命してカトリックに改宗。ポーランド系シュイスキイ家の祖となった。

 年少系のイヴァン・ヴァシーリエヴィチ・ゴルバートィイ公が、最後のスーズダリ=ニジェゴロト公である。その子孫はゴルバートィイ(ゴルバトーイ)=シュイスキイ公家と呼ばれる。
 アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ゴルバトーイ=シュイスキイ公(-1565)は1552年、実質的な総司令官としてカザン遠征。これを征服するが、のち、オプリーチニク体制に反対して処刑される。
 イヴァン・ゴルバートィイ公の弟ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・グレビョーンカ公は、15世紀半ばにおよそ20年にわたってノーヴゴロド軍を指揮し、モスクワに抵抗した。
 別の弟アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・グラザートィイ公からはバルバーシン=シュイスキイ公家が出ている。

 しかしシュイスキイ一族は、16世紀中に次々に姿を消す。1638年(?)、ヴァシーリイ4世の弟イヴァン・イヴァーノヴィチ・シュイスキイ公(1566?-1638?)の死で、ロシア系シュイスキイ公家は断絶した。
 ポーランド系シュイスキイ公家はこんにちも存続している。

トヴェーリ系

ドロゴブージュスキイ公家 Дорогобужские

 ドロゴブージュの分領公。キエフ・ルーシにはドロゴブージュという名の都市や集落が無数にあったが、ここで言うドロゴブージュはトヴェーリ公領の都市。トヴェーリ大公ミハイール・ヤロスラーヴィチの子コンスタンティーンを始祖として、14世紀初頭にトヴェーリ大公家から分裂した。
 1485年、トヴェーリ大公国がモスクワに併合されるに伴い、ドロゴブージュも独立の分領としての歴史を終えた。

 ドロゴブージュスキイ公家は、最後の分領公となったオーシプ・アンドレーエヴィチ公以降これといった人物を輩出せず、その後わずか2代50年で断絶した。
 イヴァン・ドミートリエヴィチ公を始祖とするチェルニャティンスキイ公家は、オーシプ・アンドレーエヴィチ公の従兄弟にあたるセミョーン・イヴァーノヴィチ公の子の代から複数の系統に分かれて存続したが、こちらもこれといった人物を輩出していない。正確な年月は不明だが、おそらく1600年までには断絶している。

ホルムスキイ公家 Холмские

 ホルムの分領公。トヴェーリ大公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチを始祖とする。
 フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは叔父たちがトヴェーリ大公位を継いでいる間ホルム公だったが、のち、トヴェーリ大公位を継承する。しかしその死後、トヴェーリ大公位は弟ミハイール・アレクサンドロヴィチに受け継がれ、子供たちはホルムを分領として受け取った。
 1485年、トヴェーリ大公国がモスクワに併合されるに伴い、ホルムも独立の分領としての歴史を終えた。

 ダニイール・ドミートリエヴィチ公は最後の分領公ミハイール・ドミートリエヴィチ公の弟。早くにトヴェーリに見切りをつけ、モスクワ大公イヴァン3世に仕えていた。カザン攻略、ノーヴゴロド併合で活躍した、イヴァン3世時代を代表する軍事司令官である。

 しかし早くもその子の代で本家は断絶。ミハイール & ダニイール兄弟の弟イヴァン・ドミートリエヴィチ公の子孫が細々と続いたが、それも16世紀後半には断絶。ホルムスキイ公家は姿を消した。

ミクーリンスキイ公家 Микулинские

 ミクーリンの分領公。トヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチの子フョードルを始祖として、14世紀末にトヴェーリ大公家から分裂した(ただしミハイール・アレクサンドロヴィチ自身元々はミクーリン公だった)。
 1485年、トヴェーリ大公国がモスクワに併合されるに伴い、ミクーリンも独立の分領としての歴史を終えた。

 この時点でミクーリン公家(公領)は、ミクーリンとテリャーテフに分かれていた。以後、ミクーリンスキイ公家とテリャーテフスキイ公家はモスクワ大公に重用され、代々ボヤーリンに任じられている。
 ミクーリンスキイ公家では、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ公(-1509)がノーヴゴロド=セーヴェルスキイに遠征し、いわゆる «上流諸公» をモスクワの勢力圏に組み込む上で多大の貢献をした。そのふたりの弟、イヴァン・アンドレーエヴィチ公(-1525)とヴァシーリイ・アンドレーエヴィチ公(-1540)もリトアニアとの戦いで活躍しているが、結局かれらの代でミクーリンスキイ公家は断絶した。
 テリャーテフスキイ公家は一時ヴァトゥーティン公家とも呼ばれた。トヴェーリ系ではおそらく最も遅く、17世紀半ばまで生き延びている。歴史上特筆すべき人物は輩出していないが、強いて挙げるとすればボロートニコフの乱で叛乱側で活躍したアンドレイ・アンドレーエヴィチ公であろうか。
 テリャーテフスキイ公家はからはプーンコフ公家が分かれている。プーンコフ公家はミクーリンスキイ公家と前後して断絶した。

スタロドゥーブ系

リャポロフスキイ公家 Ряполовские

 スタロドゥーブ最後の分領公アンドレイ・フョードロヴィチの子、イヴァン・アンドレーエヴィチ公を始祖とする。

 15世紀後半から16世紀初頭にかけて、各地の総督や軍司令官を輩出。ボヤーリンとなった者も少なくない。しかしこんにち的には、分厚い百科事典や人名事典で調べてもリャポロフスキイ公などという見出しにお目にかかることはあるまい。16世紀後半には早くも断絶した。

 なお、分家としてヒルコーフ公家とターテフ公家が分かれている。

ヒルコーフ公家 Хилковы

 フョードル・セミョーノヴィチ・リャポロフスキイ公の子イヴァン・フョードロヴィチ・ボリショーイ公を始祖とする。かれが «ヒローク Хилок»(虚弱者)というあだ名で呼ばれ、これが家名となった。

 ドミートリイ・イヴァーノヴィチ公(-1564)はカザン遠征で活躍した。しかしいかなるいきがかりからか、イヴァン雷帝によって処刑される。
 アンドレイ・イヴァーノヴィチ公(-1644)はツァーリのミハイール・フョードロヴィチの寵臣。フョードル・ヤーコヴレヴィチ公(1661-1729)はピョートル大帝の側近。ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ公(1789-)はニコライ1世の側近。だからと言って、3人とも史書に名を残すほどのことは何ひとつやっていない。

ポジャールスキイ公家 Пожарские

 スタロドゥーブ最後の分領公アンドレイ・フョードロヴィチの子、ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチ公を祖とする。
 すでに分領公ではなかったが、それでも所領は持っていた。ただしそれもほんの小さな集落で、しかもそれが火事(ポジャール)で焼けてしまった。なので «ポジャールスキイ» という家名になった、と実しやかに言われているが、果たして本当のところはどうなのだろう。
 もともとの分領自体が狭小だったスタロドゥーブ系の子孫は、ロモダーノフスキイ公家、ヒルコーフ公家、パレツキイ公家などいずれも貧しく、ポジャールスキイ公家も例外ではない。政治的にもまったく活躍できなかった。

 その中にあってロシア人なら誰でも知っているほどポジャールスキイの名を上げたのが、ドミートリイ・ミハイロヴィチ公(1578-1642)。
 ボリース・ゴドゥノーフとヴァシーリイ・シュイスキイにそれぞれ最後まで忠実だったドミートリイ公は、セミボヤールシチナ(ヴァシーリイ・シュイスキイを廃位して権力を握った7人の大貴族による政府)に反対し、プロコーピイ・リャプノーフ、イヴァン・ザルーツキイと «三頭政治» を形成し、第一次国民軍を率いてモスクワを占領する。負傷したドミートリイ公がニージュニイ・ノーヴゴロドで療養している間にリャプノーフとザルーツキイの対立から三頭政治は瓦解。ポーランド軍がモスクワを占領する。
 1611年、クジマー・ミーニンの要請で第二次国民軍を結成。トルベツコーイ公とも合流してポーランド軍を撃破し、モスクワを解放した(モスクワ解放の11月3日はいまでは祝日)。
 モスクワ解放後は3人による «臨時政府» を構成したが、ミハイール・ロマーノフがツァーリとなった後は敬遠され、ポーランドとの戦闘に何度か従軍した程度で名声や功績に見合う地位も与えられなかった。
 しかしこんにち、その功績を讃えてモスクワの赤の広場にドミートリイ公とクジマー・ミーニンの銅像が立っている。

ロモダーノフスキイ公家 Ромодановские

 スタロドゥーブ最後の分領公アンドレイ・フョードロヴィチの孫、ヴァシーリイ・フョードロヴィチ公を始祖とする。もはや分領公ではなかったが、所領としてもらったロモダーノヴォから家名はきている。
 なお、アクセントの位置はお尻にあるとも言われる(ロモダノーフスキイ)。おそらくこれは、19世紀にポーランド貴族の影響で移動したもの。

 グリゴーリイ・グリゴーリエヴィチ公(-1682)はウクライナ対策に従事し、露波戦争での活躍で知られる。
 フョードル・ユーリエヴィチ公(1640?-1717)はピョートル大帝の側近。1686年以降プレオブラジェンスキイ・プリカーズの指揮を委ねられる(«プリカーズ» とは省庁のこと)。プレオブラジェンスキイ・プリカーズは当時ピョートル大帝の事実上の行政府となっており、フョードル・ユーリエヴィチ公は事実上の宰相として帝国の内政を指導した。ピョートル大帝が西欧に大使節団の一員として旅行した際にも後事を託されている。
 その子イヴァン・フョードロヴィチ公(-1730)もピョートル大帝、エカテリーナ1世、ピョートル2世の下で活躍。その妻は女帝アンナ・イヴァーノヴナの母方の叔母。しかしアンナ・イヴァーノヴナの即位直後にイヴァン・フョードロヴィチ公は死去。かれの死とともに、ロモダーノフスキイ公家は断絶した。

ガガーリン公家 Гагарины

 スタロドゥーブ最後の分領公アンドレイ・フョードロヴィチの曾孫、ミハイール・イヴァーノヴィチ公を始祖とする。ミハイール・イヴァーノヴィチ公は «ガガーラ Гагара» と呼ばれ、これが家名となった。
 ミハイール・イヴァーノヴィチ公の子から、ユーリエヴィチとイヴァーノヴィチのふたつの系統に分かれる。

 ユーリエヴィチでは、詩人でもあったパーヴェル・セルゲーエヴィチ公(1747-89)、閣僚会議議長を務めたその子パーヴェル・パーヴロヴィチ公(1789-1872)、皇帝パーヴェルの愛人アンナ・ロプヒナーと結婚したパーヴェル・ガヴリーロヴィチ公(1777-1850)、外交官であり詩人・翻訳家としても名声を馳せたグリゴーリイ・イヴァーノヴィチ公(1782-1837)、パリでカトリックに改宗してイエズス会士となった変わり種のイヴァン・セルゲーエヴィチ公(1814-82)、ペテルブルク工科大学の初代学長ともなった学者のアンドレイ・グリゴーリエヴィチ公(1855-1921)などがいる。
 イヴァーノヴィチではそれこそ歴史に名を残した人物に乏しいが、マトヴェイ・ペトローヴィチ公(-1721)はネルチンスク総督、シベリア知事を務め、中国との交易拡大、運河建設に従事した。

 ガガーリンと言えば人類最初の宇宙飛行士だが、この家系とは何の縁もない。

出自不詳

ゴルチャコーフ公家 Горчаковы

 厳密に言えば «出自不詳» とは違うかもしれない。のちのゴルチャコーフ家の祖とされるのはふたつあるのである。ひとつはカラーチェフ系オーリゴヴィチ、もうひとつはスモレンスク系モノマーシチである。

 カラーチェフ系オーリゴヴィチとする説は、ゴルチャコーフ家の家系図に基づくもので、コゼリスク公ロマーン・イヴァーノヴィチを祖とする。かれが «ゴルチャーク Горчак»(ノイヤグルマ、ヨーロッパタナゴ)というあだ名で呼ばれたのが家名の由来としている。ところがカラーチェフ系オーリゴヴィチとする説には、微妙に異なる説もある。すなわち、ペレムィシュリ公の子孫とするもので、おそらくコゼリスク公ロマーン・イヴァーノヴィチもペレムィシュリ公の子であろうから両説は同じことを言っているようにも思われるが、こちらの説ではロマーン・イヴァーノヴィチ以下の存在を «後世のでっち上げ» として切り捨て、ゴルチャコーフという家名の登場も16世紀のこととしている。
 スモレンスク系(ヤロスラーヴリ系)モノマーシチとする説は、ロマーノフ公イヴァン・ロマーノヴィチの子フョードル・イヴァーノヴィチ «モールトカ» を祖とする。フョードル・イヴァーノヴィチはモールトキン家の祖でもある。
 ゴルチャコーフという家名が史料に登場するのが17世紀以降である以上、この混乱が整理されることはないだろう。

 アンドレイ・イヴァーノヴィチ公(1779-1855)はスヴォーロフ大元帥の甥。こちらも軍人として名を馳せた。
 アレクサンドル・ミハイロヴィチ公(1798-1883)はクリミア戦争の直後から外務大臣を26年間勤めた。アレクサンドル2世時代の外交はアレクサンドル・ミハイロヴィチ公に牛耳られていた。

ドルツキイ公家 Друцкие

 厳密に言えばリューリコヴィチかどうかもはっきりしない。
 ポーロツク公国のドルツク公領は14世紀にはリトアニアに併合されたが、その後も独自の分領公が存在した。しかし12世紀末から14世紀末までの200年間の記録がなく、リトアニア支配下でドルツク公であった家系がいったいどの系統の末裔なのか不明である。そもそもリトアニア大公家(ゲディミノヴィチ)は、一族をルーシ各地に公として派遣しており、あるいはドルツク公家もそのひとつであったかもしれない。

 始祖とされるのはドルツク公ミハイール・ロマーノヴィチ。かれはガリツィア王位を獲得したダニイール・ロマーノヴィチの孫とも言われるが、かれとガーリチを争ったベリズ公アレクサンドル・フセヴォローディチの孫だとする説もある。かつては、ポーロツク系の末裔とする説が一般的だったようだが、現在ではこれらに加えてさらにトゥーロフ系(イジャスラーヴィチ)の末裔とする説まであるようだ。

 ドルツキイ公家はリトアニア(ポーランド)貴族であったが、中には早くも15世紀前半にはモスクワ大公に鞍替えした者もいる。
 そのひとりイヴァン・セミョーノヴィチ・バーバ公はリトアニア大公位の継承争いに介入し、敗北してモスクワ大公ヴァシーリイ2世に仕えた。その子孫がバービチェフ公家である。
 その弟イヴァン・セミョーノヴィチ・プテャータは、プテャーティン家の祖となった。
 他方で、かれらの弟グリゴーリイ・セミョーノヴィチの末裔は、リトアニア大公からリューベチを分領としてもらい、リュベツキイ=ドルツキイ公家となった。その子孫はポーランド分割でロシア貴族となり、フランティシェク・リュベツキ=ドルツキ公は皇帝アレクサンドル1世に重用され、国家評議会のメンバーにまでなっている。
 このほかにも、ソコリンスキ=ドルツキ公家、ゴルスキ=ドルツキ公家などがある。

プテャーティン公家 Путятины

 ドルツキイ公家の分家。ドルツク公セミョーン・ドミートリエヴィチの子イヴァン・セミョーノヴィチを祖とする。かれが «プテャータ Путята» のあだ名で知られ、これが家名の由来となった。なおかれには同じくイヴァン・セミョーノヴィチという兄があり、こちらは «バーバ» のあだ名で知られ、バービチェフ公家の祖となった。
 ドルツキイ公家自体の出自がはっきりしない。イヴァン・セミョーノヴィチ・プテャータ公を「リューリクから数えて第18世代」とする史料があるが、これは推定に基づくものでしかない。

 イヴァン・セミョーノヴィチ公兄弟(バーバとプテャータのふたり)はリトアニア大公位の継承争いに関与して追われ、1436年からモスクワ大公ヴァシーリイ2世に仕えるようになった。その後大きくふたつの系統に分裂したが、年長系は17世紀中には断絶。年少系は革命後も存続しているが、いずれもこれといった人物を輩出していない。

 プテャーティンで歴史に名を残しているのは日本にやってきた提督ぐらいだろうが、かれはこの家系とは何の関係もない。

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最終更新日 13 02 2012

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