ロマーノフ家人名録

フセーヴォロド・ヨアーノヴィチ

Всеволод Иоаннович(Иванович)

公 князь императорской крови

生:1914.01.07/01.20/02.02(?)−サンクト・ペテルブルグ
没:1973.06.18(享年59)−ロンドン(イギリス)

父:ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公 1886-1918 (コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
母:エレーナ・ペトローヴナ公妃 1884-1962 (セルビア王ペータル1世)

結婚①:1939(1956離婚)
  & メアリ 1910-82 (ボーシャン伯ウィリアム・リゴン)

結婚②:1956(1961離婚)
  & エミリア 1914-93 (イェネ・ゴシュトニ)

結婚③:1961
  & ヴァッリ 1930- (アレクサンダー・ユージーン・クヌースト)

子:なし

コンスタンティーノヴィチ。ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公の第一子(長男)。
 ユーゴスラヴィア王アレクサンダル1世(1888-1934)の甥。ギリシャ王パウロス1世(1901-64)の又従兄弟。

 革命が勃発して皇帝ニコライ2世が退位したのは、フセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公がまだ3歳の時。
 1918年、父がボリシェヴィキーにより国内流刑に処され、母が父を追ってウラルへいくと、フセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公は妹エカテリーナ・ヨアーノヴナ公女とともに祖母エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃に預けられる。その後、祖母に連れられスウェーデンに国外脱出。ストックホルムで母と再会したのはさらに数ヶ月後であった。

 当時のロマーノフ家ではロシア語は第2、第3の言語であり、第1言語(周囲の人が話している言語)は多くの場合ドイツ語(か英語)であった(通常ドイツ語が母の母語、英語が乳母たちの母語)。しかも革命を逃れてロシアから出国した時フセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公はまだ4歳。母エレーナ・ペトローヴナ公妃はどういう思惑からか子供たちにロシア語を学ばせなかった。このため、革命前にロシアで生まれた最後のロマーノフ男子であるフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公は生涯ロシア語を話せなかった。

 当初は母の祖国セルビアに、その後さらにフランス、イギリスにと住居を転々とする。

 イートン、次いでオクスフォードで学ぶ。ワイン業界で働く。

 ちなみに、最初の妻メアリは、結婚に先立って正教に改宗し、洗礼名マリーヤをもらっている。
 なお、当時はロマーノフ家の家長を自認するヴラディーミル・キリーロヴィチ公も大盤振る舞いをしていて、フセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公の3人の妻いずれにもロマーノフスカヤ公妃 светлейшая княгиня Романовская の称号を与えている(本来は貴賤結婚だったので妻たちには何の称号もない)。もっとも、ニコラーエヴィチのロマーン・ペトローヴィチ公の妻にも、その子ニコライ・ロマーノヴィチ公の妻にも称号を与えていないので、あるいは皇位継承権のライバルともなるべきフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公に特に配慮したのかもしれない。

 フセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公は、革命後の皇位継承を巡るロマーノフ家・亡命ロシア人内部での論争において、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公ヴラディーミル・キリーロヴィチ公の権利を認めていた。
 1945年の時点で言えば、フセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公は、ヴラディーミル・キリーロヴィチ公アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公に次ぐ、皇位継承権第3位のロマーノフだった。しかもこの時点ではどちらにも子がなかったため、いずれはフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公が «皇位» を継ぐことが確実視されていた。
 ところが1969年、ヴラディーミル・キリーロヴィチ公が自分の跡継ぎとして娘マリーヤ・ヴラディーミロヴナ公女を指名。基本国家法に基づけば、女子が皇位を継承できるのは男系の男子が全滅した場合に限られる。しかもその場合も、最後に生き残った男系男子の直近の女子が継ぐことになり、すなわちマリーヤ・ヴラディーミロヴナ公女が «皇位» を継承できるのは、ヴラディーミル・キリーロヴィチ公がフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公ら他の男系男子よりも長生きした場合に限られる。確かに事実そうなったが、もしフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公がヴラディーミル・キリーロヴィチ公よりも長生きした場合には、«皇位» はフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公が、次いで妹エカテリーナ・ヨアーノヴナ公女が継ぐことになる。
 ヴラディーミル・キリーロヴィチ公の措置に反発したフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公は、かねてよりヴラディーミル・キリーロヴィチ公の権利を認めていなかったロマーン・ペトローヴィチ公に接近。晩年にはフセーヴォロド・ヨアーノヴィチ公もヴラディーミル・キリーロヴィチ公の権利を否認するにいたった。

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