ロマーノフ家人名録

ヴラディーミル・パーヴロヴィチ・パーレイ

Владимир Павлович Палей

ホーエンフェルゼン伯 Graf von Hohenfelsen (1904-)
パーレイ公 князь Палей (1915-)

生:1896.12.28/1897.01.09−サンクト・ペテルブルグ
没:1918.07.17-18(享年21)−アラパーエフスク

父:パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 1860-1919 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ
母:オリガ・ヴァレリヤーノヴナ・パーレイ公妃 1866-1929 (ヴァレリヤーン・グリゴーリエヴィチ・カルノーヴィチ)

結婚:なし

子:なし

エーリフ・アウグスティーノヴィチ・フォン・ピストリコルス夫人であった母の第四子(次男)であったが、父はピストリコルスではなくパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。

 1902年、両親が結婚。貴賎結婚であったため、国外追放処分となった両親とともにパリで幼少期を過ごす。
 とはいえ形式的には追放処分を受けていたのは父と母であり、父が皇帝ニコライ2世に働きかけたこともあって、ヴラディーミル・パーレイは1908年にサンクト・ペテルブルグの陸軍幼年学校に入学することを許された。

 第一次世界大戦の勃発とともに国外追放処分を解かれた両親がロシアへ。急遽陸軍幼年学校を卒業させられたヴラディーミル・パーレイは、1915年には陸軍中尉として前線に出た。

 詩が好きで、大戦中に詩集を2冊出版。軍務の合間を縫っては詩作に励み、1915年には戯曲『白いバラ』も完成させた。ちなみに詩作は、当初はフランス語で行っていたが、徐々にロシア語にシフトしていった。
 コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の戯曲『ユダヤの王』をフランス語に翻訳したりもしている(ただし出版されることなく革命騒ぎの中失われてしまった)。
 コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公と並んで、その文学活動が単なる «殿様芸» ではなかった稀な例。ただし、ではヴラディーミル・パーレイ公の文学的才能がいかほどのものだったのか、その死があまりに早すぎたこと、死後は革命政府によりほぼ無視されてきたことから、その評価はいまだに定まっていない。

 二月革命は、病気のため療養していたツァールスコエ・セローの家族のもとで迎えた。
 臨時政府は皇帝一家以外のロマーノフは基本的に自由にさせていたが、ヴラディーミル・パーレイ公がアレクサンドル・ケーレンスキイを揶揄した風刺詩を発表したことで、パーヴェル大公一家が一時的に自宅軟禁状態に置かれたこともあった。

 十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキーは、当初はロマーノフ家の男子に登録させ、ペトログラードから出ることを禁じるだけで満足していた。しかし1918年春には国内流刑へと方針変更。
 この時、ヴラディーミル・パーレイ公はロマーノフの血は引くものの実際にはロマーノフ一族ではなく、ボリシェヴィキーも最終的な決定をヴラディーミル・パーレイ公自身に委ねた。つまり、ロマーノフ家と、つまりは父と絶縁すればよし、ロマーノフ家との、つまりは父とのつながりを維持するのならばロマーノフの一員として扱う、として、どちらにするか選ばせた。ヴラディーミル・パーレイ公は自ら後者を選んだと言われる。
 4月、ヴラディーミル・パーレイ公は、コンスタンティーノヴィチ兄弟(イヴァン公コンスタンティーン公イーゴリ公)、さらにセルゲイ・ミハイロヴィチ大公とともにヴャートカに送られる。
 ヴャートカでの生活は比較的自由なものであった。しかし4月最後の日にかれらはエカテリンブルグに転送される。数日後、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃が合流。
 エカテリンブルグでもそれなりの自由が認められたが、当然、当時イパーティエフの家に監禁されていた皇帝一家との接触は禁じられた。
 5月半ばには、エカテリンブルグの北方にあるアラパーエフスクに再転送された。ロマーノフ一族を一ヶ所にまとめておく危険性を認識したのだろう。ここでもかれらは街中を歩くことを許されるなど、比較的自由に暮らすことができた。
 しかし6月に入り、白衛軍がウラルに接近するにつれ、かれらに対する規制も強化されていく。6月13日、ペルミでミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が処刑される。7月17日から18日にかけての夜、エカテリンブルグで皇帝一家が処刑されたちょうど次の晩、アラパーエフスクでヴラディーミル・パーレイ公らも処刑された。

 ヴラディーミル・パーレイ公の遺骸は、直後にここを占領した白衛軍により回収され、アラパーエフスキイ大聖堂に改葬された。しかし1920年になって、敗退する白衛軍により持ち去られ、イルクーツクを経て、最終的には北京の聖セラフィーム・サローフスキイ大聖堂に再埋葬された(現在は取り壊されて公園になっている)。

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