ロマーノフ家人名録

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ

Stanisław August Poniatowski, Stanislovas Augustas Poniatovskis, Станислав Август Понятовский

ポーランド王・リトアニア大公 król Polski i wielki książę Litewski/Lietuvos didysis kunigaikštis ir Lenkijos karalius (1764-95)

生:1732.07.06/07.17−ヴォウチン
没:1798.02.01/02.12(享年66)−サンクト・ペテルブルグ

父:スタニスワフ・ポニャトフスキ
母:コンスタンツィヤ (カジミェシュ・チャルトルィスキ

愛人:エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃 1729-96

結婚:なし

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
?と
1スタニスワフ・グラボフスキ1780-1845

ポーランド貴族。カトリック。
 女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナのふたり目の愛人。

 チャルトルィスキ家の親族であり、幼少より啓蒙主義的教育を受けた。長じては外交官となり、1757年にサンクト・ペテルブルグに派遣される。ここで、皇太子妃であるエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の愛人となる。

 1759年、ロシア宮廷の陰謀に巻き込まれ、帰国。エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃との関係は切れたが、スタニスワフ・アウグストが生涯独身を貫いたのは彼女への愛ゆえだ、とも言われる。1762年にクーデタでエカテリーナ・アレクセーエヴナが女帝となった時にも、サンクト・ペテルブルグに飛んで行こうとした。

 当時のポーランドは、王権が極度に弱く、ロシアとは違う意味で «貴族の天国» であった。それぞれの大貴族(マグナート)や小貴族(シュラフタ)は諸外国と結んでおり、混乱状態にあった。
 貴族の既得権益維持を主張するポトツキ家、ラジヴィウ家などの «共和派» は、時のポーランド王アウグスト3世/ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(1696-1763)と結んでおり、チャルトルィスキ家はその廃位と国政改革(強力な王権・中央集権の確立)を主張してロシアに接近していた。
 1763年、アウグスト3世が死ぬと、次の王を誰にするかで両者は激しく対立。共和派はヤン・ブラニツキを推したが(これをフランスとハプスブルク家が支援)、チャルトルィスキ家はスタニスワフ・アウグストを推したて(これをロシアとプロイセンが支援)、結局1764年にはその即位を勝ち取る。

 王となったスタニスワフ・アウグストは、チャルトルィスキ家一門(«Familia» と呼ばれた)と一体となって改革を推進。その際最大の目標となったのは、国政の停滞を招いた元凶とも言うべき «Liberum Veto» であった。
 ポーランドの国会(«セイム»)では、全会一致のみが認められ、誰かひとりでも反対票があれば決議は否決される仕組みになっていた。これを «Liberum Veto» と呼ぶ。どんな改革もすべてこれによってつぶされてきた。しかし «Liberum Veto» は、貴族の側からすれば、王権に対する勝利の証であり、このためその廃止には断固反対する勢力が強かった。

 1767年、共和派はロシアと結び、エカテリーナ2世に支援を要請。介入したロシア軍により、スタニスワフ・アウグストの改革案は葬り去られた。
 しかしロシアの強権的姿勢に反発した共和派は、もともとが反露であったこともあり、ハプスブルク家の支援を得て蜂起。スタニスワフ・アウグストはロシアと結んでこれを鎮圧する羽目に追い込まれた。

 1772年、第一次ポーランド分割。
 スタニスワフ・アウグストは、改めてロシアと協調しつつ改革を推進しようと努力した。頼みのハプスブルク家がポーランド分割でロシアに与したことから共和派もおとなしくなり、久々に訪れた平穏の中、スタニスワフ・アウグストは積極的に近代的中央集権体制確立に向けて改革を実施していった。

 1789年はフランス大革命の年だが、時あたかもポーランドでも改革派の総決算の時を迎えていた。チャルトルィスキ、フーゴ・コウォンタイ、イグナツィ・ポトツキなどの改革派が、セイムによる統治に乗り出し、スタニスワフ・アウグストもこれに同調。ロシアに対する牽制としてプロイセンと同盟する。
 そして改革の集大成が、1791年の5月3日憲法である。三権分立、世襲王制、閣僚制度、«Liberum Veto» の廃止、中央集権、リトアニア大公領の諸権利の廃止が定められた。

1567年にポーランド王国とリトアニア大公国とが正式に合同すると、事実上リトアニアはポーランドに併合された形となった。首都はワルシャワに置かれ、リトアニア貴族はポーランド化してポーランド語が貴族の公用語となった。しかしリトアニアは連合国家内の行政単位として存続し、独自の権限を与えられていた。

 これに反発する勢力は、1792年に再びエカテリーナ2世に泣きつく。ロシアがポーランドを軍事占領し、改革はついえた。
 1793年、第二次ポーランド分割。5月3日憲法は廃止され、ポーランドは事実上国家としての機能を停止させて、わずかに残った領土を駐在ロシア大使が実質的に支配した。

 1794年、タデウシュ・コシチューシュコ(1746-1817)が蜂起。しかしもはやスタニスワフ・アウグストは傍観者にしかなり得なかった。
 コシチューシュコの蜂起が鎮圧されると、スタニスワフ・アウグストはロシア軍によってグロドノに軟禁され、1795年、第三次ポーランド分割。ポーランドは地上から姿を消した。
 スタニスワフ・アウグストはグロドノで強制的に退位させられた。

 1796年、新帝パーヴェル・ペトローヴィチに招かれ、サンクト・ペテルブルグで戴冠式に出席。以後、軟禁は解除され、サンクト・ペテルブルグで余生を送った。

 強力な世襲王権の確立には、当然王位継承者、すなわち王子が必要である。スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが終生結婚しなかった(そのため嫡子が生まれなかった)というのは、自分自身が目指した改革に逆らうものであったと言える。にもかかわらずなぜ結婚しなかったかと考えると、案外、エカテリーナ2世を終生想い続けたという話も真実かもしれない。であるならば、そのエカテリーナ2世に何度も自分の目指す改革をつぶされ、最後には愛する祖国を滅ぼされた心境はどのようなものだったろう。

ちなみにこれ以降、ポーランド復興の道はみっつに分かれる。伝統的な親仏政策を継続してフランスの後押しを受けてポーランドを再興させようとしたのが、スタニスワフ・アウグストの甥ユゼフ・ポニャトフスキ(1763-1813)。ナポレオンに協力し、1807年のワルシャワ大公国建国に尽力。フランス元帥となった。またヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ(1755-1818)も著名で、現ポーランド国歌にも歌われている。
 他方で新たな現実を受け入れロシアに接近してその庇護下にポーランドを復活させようとしたのがチャルトルィスキ一門であり、その筆頭がアダム・イェジ・チャルトルィスキ公であろう。ナポレオンの没落後、ヴィーン会議でロシア皇帝を王とするポーランド王国(«会議王国»)が成立したのはかれの尽力によるところが大きい。
 そして第三の道が民衆蜂起で、これを体現したのが共和派貴族タデウシュ・コシチューシュコであったと言えるだろう。ヴィーン体制が国際的に確立されると、«会議王国» を容認できないポーランド人に残された道は民衆蜂起しかなくなった。

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