ソフィヤ・シャルロッタ (シャルロッテ・クリスティーネ)
Charlotte Christine, Софья Шарлотта
ブラウンシュヴァイク女 Prinzessin von Braunschweig
ツァレーヴナ царевна (1711-)
生:1694.08.02・26・29−ブラウンシュヴァイク(ドイツ)
没:1715.10.22/11.02(享年21)−サンクト・ペテルブルグ
父:ルートヴィヒ・ルードルフ 1671-1735 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公(1731-35)
母:クリスティーネ・ルイーゼ 1671-1747 (エッティンゲン侯アルベルト・エルンスト)
結婚:1711−トルガウ(ザクセン、ドイツ)
& 皇太子アレクセイ・ペトローヴィチ 1690-1718 (皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクセイ・ペトローヴィチと | |||||||
1 | ナターリヤ | 1714-28 | − | ||||
2 | ピョートル(皇帝2世) | 1715-30 | − |
北ドイツの領邦君主ルートヴィヒ・ルードルフの三女。ルター派。
姉エリーザベト・クリスティーネ(1691-1750)はオーストリア大公カール(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の弟で、のちの皇帝6世。1685-1740)の妃。また、妹アントワネッテ・アマーリエ(1696-1762)はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェールディナント・アルプレヒト2世(1680-1735)の妃(その子がアントン・ウルリヒ)。
ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世/ポーランド王アウグスト2世(1670-1733)の妃クリスティアーネ・エーベルハルディネ(1671-1727)の庇護のもとドレスデンで育てられる。
1709年からはのちの夫アレクセイ・ペトローヴィチもドレスデンに留学していたが、両者対面の結果について特段の記録はない。
1710年、カールスバードで改めてアレクセイ・ペトローヴィチと対面(結婚相手として)。1711年、トルガウにてアレクセイ・ペトローヴィチと結婚。ルター派の信仰を維持することが認められる(ただし生まれてくる子供は正教徒として育てられる)。
ロシア «王族» の男子が外国の女子と結婚するのは、1472年、イヴァン3世大帝とソフィヤ・パレオローグとの結婚以来。花嫁が «異教徒» となると、さらにさかのぼって1391年、ヴァシーリー1世とソフィヤ(リトアニア大公ヴィタウタスの娘)以来となる。ツァレーヴナ・イリーナ・ミハイロヴナの時もそうだったが、外国王族との結婚となると必ず信仰の問題が立ちはだかる。おそらくこの時は、依然ロシアが «大国» とは言えない状況にあることから、ピョートル大帝の側が譲歩したのだろう。
前年のアンナ・イヴァーノヴナ、後年のエカテリーナ・イヴァーノヴナ、アンナ・ペトローヴナの場合でも、夫と妻はそれぞれの信仰を保持することが認められている。他方、生まれてくる子供は父親の信仰に従うことが定められている(アンナ・ペトローヴナの場合は少し違う)。結婚相手が改宗を強制されたのは、1745年にピョートル・フョードロヴィチ大公と結婚したエカテリーナ・アレクセーエヴナが最初である。この30年でロシアの地位は格段に飛躍していた。以後、ロマーノフ家に入る嫁には正教への改宗が強制され、他家に嫁ぐロマーノフ家の娘には正教の保持が認められることになる。
ちなみに、ロマーノフ家に嫁入りするに際して正教に改宗しなかった女性は(皇帝の承認を得た王朝結婚について)、ソフィヤ・シャルロッタ以後にはマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃が最初(その後2人いる)。残る18人は全員正教に改宗しているか、もともと正教徒だった(ちなみにヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃の例は事後承認なので «皇帝の承認を得た結婚» としては認めない)。逆に他家に嫁入りするに際して正教を棄てたロマーノフ女性は(貴賤結婚を含めても)、24件中でひとりもいない。
結婚直後にアレクセイ・ペトローヴィチはピョートル大帝の命令で、ポーランドに展開するロシア軍への食糧供給を組織するためトルニに派遣される。ソフィヤもこれに同行。1713年になって初めてサンクト・ペテルブルグに赴いている。
ソフィヤ・シャルロッタはロシア宮廷に溶け込めず、アレクセイ・ペトローヴィチとも理解しあえず、不幸な結婚生活を送ったようだ。
ロシア宮廷に溶け込めなかったのは仕方あるまい。当時のロシアには西欧風の宮廷などなく、女性たちもようやくテーレム(後宮)から顔を出しはじめたばかりだったのだから。社交界もできたばかりで宮殿らしい宮殿と言っても冬宮ぐらいしかなく、ドレスデンの洗練されたヴェルサイユ風宮廷に馴染んだソフィヤにとっては違和感ばかりが先に立っただろう。
また一方で、ロシア人の側にしても、依然 «女性はテーレムの奥に引っ込んでいるべきもの» という認識が根強く残っていただろうし、ましてや «異教徒» で «外国女» であるソフィヤに対しては偏見が先立ってとうてい受け入れることができなかったに違いない。
ちなみにソフィヤ・シャルロッタの宮廷に仕えたのは外国人ばかり。ソフィヤ・シャルロッタ自身ロシア語をマスターしなかった。
結婚当初は実家への手紙の中で「ツァレーヴィチはわたしを情熱的に愛してくれています」などと書いていたソフィヤ・シャルロッタだったが、その状態は長くは続かなかった。反ピョートルの保守派や教会関係者に取り巻かれていたアレクセイ・ペトローヴィチにとって、ソフィヤがルター派にとどまったことは大問題だったし、あるいはそもそもソフィヤが外国人だというだけで打ち解けられないものを感じていたかもしれない。アレクセイ・ペトローヴィチの性格も問題だったろう。
1715年、男児ピョートル・アレクセーエヴィチを生んだ9日後、産褥で死去。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬された。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂 Петропавловский собор は、ネヴァ河口ザーヤチー島上のペトロパーヴロフスカヤ要塞 Петропавловская крепость の中にある。クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に代わる皇族の墓所。ただししばらくはアレクサンドル・ネフスキイ大修道院と併用されていた。
とはいえ、歴代の皇帝・皇妃・女帝でここに葬られなかったのはピョートル2世とイヴァン6世、ピョートル3世のみ(ピョートル3世はのちにこちらに移されている)。もちろんマリーヤ・フョードロヴナ、ニコライ2世、アレクサンドラ・フョードロヴナもここには埋葬されなかったが、いずれもソ連崩壊後ここに移された。このため現在ここに眠っていないのはピョートル2世とイヴァン6世だけである。
ツァーリ、ツァリーツァを含めても、現在アルハンゲリスキイ大聖堂かペトロパーヴロフスキイ大聖堂以外の場所に埋葬されているのは、イヴァン6世(場所不明)以外にはプラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァ(アレクサンドル・ネフスキイ修道院)とエヴドキーヤ・ロプヒナー(ノヴォデーヴィチー修道院)だけになっている。それ以外のツァリーツァはほぼ全員ヴォズネセンスキイ修道院に埋葬されていたが、ソ連時代にアルハンゲリスキイ大聖堂に移された。
正教に改宗しなかったせいもあってかロシア語での呼び方は一定せず、ソフィヤ・シャルロッタのほかシャルロッタ・クリスティーナ Шарлотта Кристина、シャルロッタ・ソフィヤ Шарлотта Софья などもある。