ロマーノフ家人名録

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ

Сергей Александрович

大公 великий князь

生:1857.04.29/05.11−ツァールスコエ・セロー
没:1905.02.04/02.17(享年47)−モスクワ

父:皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ 1818-81
母:皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナ 1824-80 (ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ2世)

結婚:1884−サンクト・ペテルブルグ
  & エリザヴェータ・フョードロヴナ 1864-1918 (ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ4世)

子:なし

皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの第七子(五男)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの弟。

 幼少時代は、母、姉マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女、弟パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公と親密であった。すでに肺結核で病の床についていた母は、外国や南ロシアに静養に赴く際にはこの3人の年少の子等を伴うのが常だった。セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が内省的で信仰深くなったのは、この母の影響かもしれない。
 あるいはその結果か、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は3人の兄たちとはかなり異なる性格の持ち主となった。自己に厳しいがまた他者にも厳しく、家庭内では規律と従順さを使用人だけでなく家族にも要求した。まためったに感情を表に出さず、そのため冷淡な印象を与えたが、批判や不服従には不寛容ですぐに怒りをあらわにした。
 特にパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の «庇護者» を任じており、父が愛人を囲っていた事実をパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公から隠していたらしい。

 ロマーノフ家の男子として、軍人としての職務に真面目に励んだ。露土戦争(1877-78)に従軍し、戦後大佐に昇進。プレオブラジェンスキー連隊長も勤め(1887-91)、最終的には中将(1896)。

 歴史、文学に強い関心を持ち、英語、ドイツ語、フランス語を話したほか、原語で『神曲』を読むためにイタリア語も学んだ。トルストーイやドストエーフスキーとも親交があったらしい。さらに絵画や音楽、舞台演劇をはじめとする芸術全般にも自ら手を染めた。
 詩人でピアニストでもあった従兄弟のコンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公に、気質的にも嗜好面でもよく似ており、仲も良かった。社交界を嫌い、あまり宮廷に出入りしなかった点も似ている。

 信仰に篤かった点でもセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公はコンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公に似ている。特に最愛の母が死んだ後に顕著になり、1881年にはイェルサレムに赴き、そこに正教の教会を建立している。また皇室正教パレスティナ協会(聖地の正教施設の維持管理、ロシア人の巡礼の庇護を目的とする)を設立し、自らその会長に就任。

 1891年、モスクワ総督に任じられる。その後1896年にはモスクワ軍管区司令官の任も兼務することとなり、モスクワの行政と軍事の最高責任者となった。
 これによりセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃とともにクレムリンに引っ越す。とはいえ、むしろモスクワ郊外にある所領イリインスコエで過ごす時間の方が多かったかもしれない。
 もともとイリインスコエはセルゲイ大公夫妻のお気に入りの場所で、しばしば仲の良かったパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公と一緒にここで過ごしていた。1891年、パーヴェル大公の妃アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ大公妃が死んだのもここだった。以後、母を亡くしたマリーヤ・パーヴロヴナ大公女ドミートリー・パーヴロヴィチ大公をここで養った。

 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公がモスクワの支配者であった1891年から1905年までの時期は、ロシアにとって激動の時期であった。急速な資本主義の発展に伴う都市化の進展(都市人口の急増)、労働者の増加とそれに追いつかない労働条件の悪化、それによりもたらされる都市労働者の左傾化と革命運動の急進化(具体的にはテロの頻発)、西欧文化の流入とそれによる市民意識の高まり、学生の急進化、これに対する政府の締め付け強化、民族意識の高まりとこれに比例する少数民族への締め付け強化……。
 労働運動と学生運動に対する弾圧と民族主義政策は、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が兄アレクサンドル3世や甥ニコライ2世と共有する志向性だった。

 モスクワの支配者となってセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が最初に手がけたのが、ユダヤ人のモスクワからの追放だった。1892年、モスクワに着任早々に2万人にものぼるユダヤ人住民がモスクワ市内から追放された。これはモスクワ経済に壊滅的な打撃を与え、それがひいては労働運動の激化にもつながっている。
 続いてモスクワ大学の学生たちの取り締まりを強化し、学生のみならず教授たちにも厳しい規制をかける。また全国から集まってくる学生のための寮を1899年と1903年に建設し、学生運動の沈静化を図った(これには慈善的意味もあった)。
 さらに労働運動をコントロールするため、官製の労働組合を組織。これは実は警察が影で糸を引くもので、組織者にちなんで «ズバートフシチナ» と呼ばれた。

 これら保守的、反動的政策を実施したとして、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は評判が悪い。特にモスクワ大学に対する規制強化はインテリから批判を浴び、ズバートフシチナの導入は労働運動の関係者からセルゲイ大公が悪者視される最大の要因ともなった。
 しかしこれらの政策は基本的に帝国政府の政策であった。

 同時にセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公については、個人的なレベルでは非常にヒューマンで、労働者、貧民、孤児や女性など社会的弱者の生活改善に真摯に悩み取り組んでいたとの証言もある。
 それどころか、かれ自身改革を目指していたとも言われる。ただしそれも君主制の枠内での話であるのは言うまでもない。

 1894年、兄の死で、その子ニコライ2世が即位。ニコライ2世はかつてセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の下で軍務を始めたこともあり、両者の関係はかなり親密だった。
 加えてこの年の暮れ、ニコライ2世は、セルゲイ大公妃エリザヴェータ・フョードロヴナの妹アレクサンドラ・フョードロヴナと結婚。叔父と甥は義理の兄弟にもなった。
 このようなこともあって、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は甥に対して大きな影響力を有した。

 1896年、皇帝ニコライ2世の戴冠式がクレムリンのウスペンスキー大聖堂で行われた(歴代ツァーリ・皇帝の戴冠式はここで行われる)。この時、新帝の行列を見ようと大勢の観客が押し合いへし合いする中、近郊のホドィンスコエ・ポーレにて1000人を超える人が死ぬ大惨事が勃発。
 もともと軍事演習場であったホドィンスコエ・ポーレを戴冠式関連のイベント会場として大衆を集めることに無理があり(塹壕などもあちこちに掘られていた)、加えて人々の出足を甘く見たのか整理・誘導・警備のための部隊はほんのわずかだった。事前の準備・計画に穴があったことは明白で、これを承認したセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公に批判が集中した。特にセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が、事件の責任を他者に転嫁した(と衆目には見えた)だけになおさらだった。
 その夜、ニコライ2世はフランス使節のための舞踏会に出席。事故を軽く見ているとして、ニコライ2世自身にも批判の矛先は向けられた。
 その後の対応を巡り、ロマーノフ家内部に亀裂が生じた。

 1902年、弟パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公が外国で貴賎結婚をし、国外追放に処されたため、正式にセルゲイ・アレクサンドロヴィチ夫妻がマリーヤ・パーヴロヴナ大公女ドミートリー・パーヴロヴィチ大公の後見人となった。

 日露戦争がはかばかしく行かない中、ロシアでは社会不安が広がる。セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は徹底的な弾圧を主張したらしい。しかし帝国政府はむしろ反政府勢力に妥協的で、これに不満を覚えたセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は1905年初頭、モスクワ総督を辞任した(ただしモスクワ軍管区司令官の職務にはとどまっている)。

 СРのテロリスト、イヴァン・カリャーエフの爆弾テロにより、クレムリンで爆殺された。

 クレムリン内のチュードフ修道院に埋葬される。ソ連時代、チュードフ修道院は取り壊されて最高会議ビルが新たに建てられたが、1990年にセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の遺骨が発掘され、1995年以来ノヴォスパースキー修道院(モスクワ)に眠っている。

 同性愛者との噂が根強いが、必ずしも根拠はない(かといって明確に否定もできないようだが)。
 この点も含め、実像については謎の多い人物だが、現在セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公に関する大部の史料集が発刊されているので、今後多少なりとも明らかになっていくかもしれない(それでもセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公自筆の書簡等、失われた史料が多すぎる)。

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