ロマーノフ家人名録

プラスコーヴィヤ・フョードロヴナ・サルトィコーヴァ

Прасковья Федоровна Салтыкова

ツァリーツァ царица (1684-)

生:1664.10.12/10.22−ニージュニイ・ノーヴゴロド
没:1723.10.13/10.24(享年59)−サンクト・ペテルブルグ

父:フョードル・ペトローヴィチ・サルトィコーフ -1697
母:アンナ・ミハイロヴナ・タティーシチェヴァ

結婚:1684−モスクワ
  & ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ 1666-96

愛人:ヴァシーリイ・ユシュコーフ

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
イヴァン5世・アレクセーエヴィチと
1マリーヤ1689-92
2フェオドーシヤ1690-91
3エカテリーナ1691-17331716カール・レーオポルト1678-1747メクレンブルク=シュヴェリーン公(1713-28)ドイツ諸侯
4アンナ(女帝)1693-17401710フリードリヒ・ヴィルヘルム1692-1711クールラント公(1698-1711)
5プラスコーヴィヤ1694-17311719イヴァン1680-1730イリヤー・ミハイロヴィチ・ドミートリエフ=マモーノフリューリコヴィチ

古い大貴族で、父はボヤーリン。正教徒。

サルトィコーフ家は1240年のネヴァ川の戦いにも従軍した古い家柄。もっとも、歴史に名を刻んだ人物はほとんどいない。サルトィコーフ家が名を上げるのは、プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァがきっかけと言ってもいい。女帝アンナ・ヨアーノヴナの親族として台頭し、18世紀は大いに活躍したが、19世紀に再び歴史の表舞台から姿を消した。
 ピョートル・セミョーノヴィチ伯(1696-1772)、イヴァン・ペトローヴィチ伯(1730-1805)の父子、さらにニコライ・イヴァーノヴィチ公(1736-1816)の3人の元帥を輩出したが、いずれもとりたてて活躍したわけではない。

 1684年当時父はエニセイ地方の要塞司令官を勤めていた。プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァが花嫁コンテストでイヴァン5世の妃に選ばれ、父もモスクワに戻る(ちなみに最後の花嫁コンテスト)。
 プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァのツァリーツァ時代は12年に及んだが、前半は義姉のツァレーヴナ・ソフィヤ・アレクセーエヴナが、後半は義弟のツァーリ・ピョートル1世が実権を握り、夫イヴァン5世自身が政治に一切関与しなかったので、プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァと政治とのかかわりもなかったようだ。

 夫の死後、唯一のツァーリとなったピョートル1世からモスクワ近郊のイズマイロヴォ村を与えられ、そこに住んだ。ボヤーリンのヴァシーリー・ユシュコーフを愛人にしたと言われる。ちなみにピョートル1世はこの関係を認めていたらしい(本人がそちらではだらしがなかったのだから、そもそも他人のことを言えた義理ではない)。
 もっともヴァシーリー・ユシュコーフがプラスコーフィヤ・サルトィコーヴァの愛人となったのはイヴァン5世の生前だとも言われ、娘たちはユシュコーフの子だ、とする説もある。これは精神的にも肉体的にも虚弱だったイヴァン5世が女性と性的関係を持てたはずがない、という先入観から生まれた憶測であって、特段の裏付けがあるわけではない。
 1708年、新都サンクト・ペテルブルグに引越し。

 ピョートル1世との関係は良好で、正妃のいないピョートル1世(1698-1712 は妃がいなかった)のためにツァリーツァの代役を務めた(実際プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァは未亡人とはいえ依然ツァリーツァだった)。
 また、ピョートル1世マルファ・スカヴロンスカヤとの私生児アンナエリザヴェータの養育もしたという。

 多分に伝統的な価値観を持った女性だったらしい。そもそもプラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァの育てられた時代・環境がまだまだ伝統的なものだったのだから当然だろう。
 しかし同時に、自身と娘たちの存在が完全に義弟ピョートル1世によりかかったものであることを理解していたのだろう。ピョートル1世の改革を基本的に支持し、それに従った。娘たちの教育も «近代風» であった(それまで女子教育では見られなかった歴史や地理、外国語教育が行われた)。
 しばしば彼女の «宮廷» で外国の大使をもてなしたり(招いたのはピョートル1世だが)、そういう場合にはプラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァ自身 «ドイツ風» に着飾ったりもした。

 とはいえ、1710年、ピョートル1世がプラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァの娘をクールラント公と結婚させようとすると、プラスコーヴィヤ・フョードロヴナは、娘を外国人と結婚させるという考えに怖気をふるったと言われる。最終的には、最も「好きではない」次女アンナ・ヨアーノヴナを差し出した。

 最愛の娘エカテリーナ・ヨアーノヴナと孫娘エリーザベト(アンナ・レオポリドヴナ)に看取られて息を引き取った。サンクト・ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されている。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロマーノフ家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system