ピョートル・ヴァシーリエヴィチ・ザヴァドフスキー
Петр Васильевич Завадовский
伯 Reichsgraf (1794-)
伯 граф (1797-)
生:1739−チェルニーゴフ県
没:1812.01.10/01.22(享年73?)
父:ヴァシーリー・ペトローヴィチ
母:?(ミハイール・シローイ)
愛人:女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ 1729-96
結婚:−1787
& ヴェーラ・ニコラーエヴナ 1768-1845 (ニコライ・アプラークシン伯)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
ヴェーラ・ニコラーエヴナと | |||||||
1 | アレクサンドル | 1794-1856 | |||||
2 | ヴァシーリー | 1798-1855 | 1824 | エレーナ | 1807-74 | ミハイール・ヴロデク | |
3 | タティヤーナ | カブルコフ |
チェルニーゴフの下級貴族。正教徒。
女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナの6人目の愛人。
ザヴァドフスキー家はポーランドのシュラフタ(下級貴族)出身。17世紀にウクライナに移り住んだとされ、それが本当なら植民者として送り込まれたのだろう。
ピョートル・ザヴァドフスキーはマロロシア総督ピョートル・ルミャーンツェフ伯に官吏として仕える。1775年、ルミャーンツェフ伯により女帝エカテリーナ2世に推挙され(愛人として、ではなく、官吏として)、サンクト・ペテルブルグへ。ちなみにこの時一緒に推挙されたのがアレクサンドル・ベズボロートコ。
1776年、南方へ赴任するグリゴーリー・ポテョームキン公に後釜として認められ、女帝エカテリーナ2世の愛人となる。しかしわずか数ヶ月でお払い箱(最も短かった愛人)。
愛人としての期間が最も短かったとはいえ、エカテリーナ2世の愛人としては珍しく政治的な役割を果たしたことで知られる。かれが愛人であった時期はちょうどプガチョーフの乱の直後で、再発防止のために地方行政の改革が急がれていた時期であった。ピョートル・ザヴァドフスキーはこれに参画している。
あるいはそれも、友人アレクサンドル・ベズボロートコとのかかわりがあったのかもしれない。アレクサンドル・ベズボロートコは、1775年以来エカテリーナ2世の側近として活躍し、あらゆる勅令を準備したと言われる能吏である。
ピョートル・ザヴァドフスキーもエカテリーナ2世の愛人をお払い箱となった後も、アレクサンドル・ベズボロートコに引き立てられて宮廷で活動し、さらにはエカテリーナ2世自身この元愛人のキャリアを後押しした。エカテリーナ2世は別れた元愛人たちの面倒をよく看た。その意味で最高の愛人だった。
元老院議員、貴族銀行総裁を務め、女子教育にも携わる。皇帝アレクサンドル1世の下で初代の国民教育大臣(1802-10)。この時期に多くの学校が開設され、カザニ大学、ハリコフ大学、デルプト大学の開設が承認された。
かれの息子たちの死と共に、ザヴァドフスキー家は断絶した。