ロマーノフ家人名録

ピョートル・ニコラーエヴィチ

Петр Николаевич

大公 великий князь

生:1864.01.10/01.22−サンクト・ペテルブルグ
没:1931.06.17(享年68)−カープ・ダンティーブ(フランス)

父:ニコライ・ニコラーエヴィチ大公 1831-91 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ
母:アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃 1838-1900 (ペーター・フォン・オルデンブルク)

結婚:1889−ペテルゴーフ
  & ミリツァ・ニコラーエヴナ 1866-1951 (モンテネグロ王ニコラ1世)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ミリツァ・ニコラーエヴナと
1マリーナ1892-19811927アレクサンドル公1886-1974ニコライ・ドミートリエヴィチ・ゴリーツィン公ゲディミノヴィチ
2ロマーン1896-19781921プラスコーヴィヤ1901-80ドミートリー・セルゲーエヴィチ・シェレメーテフ伯ロシア貴族
3ナデージュダ1898-19881917ニコライ公1893-1961ヴラディーミル・ニコラーエヴィチ・オルローフ公ロシア貴族
4ソフィヤ1898

ニコラーエヴィチ。ニコライ・ニコラーエヴィチ大公の第二子(次男)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。同じく従姉妹にギリシャ王妃オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女がいる。

 ロマーノフ家の男子の常として軍人として育てられ、最終的には陸軍中将にまで登りつめている。
 しかし若年より肺結核を発症し、長期にわたり外国やクリミアなどで療養することを余儀なくされた。その甲斐あって結核もほぼ治り、工兵査察総監として軍務に復帰している。

 物静かな性格で、病気もあって軍務でも社交界でも表面に立つことはなかった。そもそも気質的に軍事には向いておらず、軍人となったのもロマーノフ家の男子としての義務からだったろう。
 もっとも、性格的にはむしろ反対だった兄とは仲が良かった。しかしその結果、決断力と行動力のある兄の影に常に隠れることになり、政治的にも軍事的にも、宮廷生活や王朝面でも何ら特筆すべき役割を果たしていない。

 志向からすると芸術家で、特に絵画と建築に多大な関心を抱いていた。母の住んでいたキエフのポクローフスカヤ女子修道院に教会堂を設計したり、日露戦争の戦死者を記念する教会堂の建設にも携わった。1913年には芸術アカデミーの開催した展覧会に参加してもいる。クリミアにある家族の所領デュリベルにも、自身の設計で宮殿を建設している。
 性格的にも似た従兄弟ドミートリー・コンスタンティーノヴィチ大公とは仲が良く、所領ズナメンカ(ドミートリー・コンスタンティーノヴィチ大公の所領ストレーリナの近隣)に招いて、ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃と3人で音楽の演奏を楽しんだという。

 第一次世界大戦では、常に兄ニコライ・ニコラーエヴィチ大公の参謀としてそのもとにいた。
 1915年に兄が最高総司令官を解任されてカフカーズ副王に任命されると、ピョートル・ニコラーエヴィチ大公もカフカーズに赴任した。

 1917年の二月革命後、兄ニコライ・ニコラーエヴィチ大公夫妻と共にクリミアへ。1919年、イギリスの手で国外退去。亡命生活も兄とともにした。
 亡命後はキリール・ヴラディーミロヴィチ大公の皇位継承を認めず、ロマーノフ家の家長として兄を推した。もっとも、生来の性格からして、皇位継承を巡る論争や政治的な活動には一切かかわらなかった。

 カンヌの大天使ミカエル教会(正教会)に埋葬されている。

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