ロマーノフ家人名録

ピョートル・ミハイロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン

Петр Михайлович Бестужев-Рюмин

伯 граф (1742-)

生:1664.07.28/08.08
没:1743(享年79?)

父:ミハイール・グリゴーリエヴィチ・ベストゥージェフ
母:?

結婚:
  & エヴドキーヤ・イヴァーノヴナ・タルィジナ

愛人:女帝アンナ・イヴァーノヴナ 1693-1740 (ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エヴドキーヤ・タルィジナと
ミハイール1688-1760アンナ-1760ガヴリイール・ゴローフキン伯ロシア貴族
アレクセイ1693-1766アンナ-1761イヴァン・ベッティヘル
アグラフェーナニキータ公フョードル・ヴォルコーンスキー公リューリコヴィチ

ベストゥージェフ=リューミン家の始祖。正教徒。

ベストゥージェフ家は15世紀以来モスクワ大公に仕える中流の宮廷貴族。1701年にピョートル・ミハイロヴィチの請願が容れられて、ベストゥージェフ=リューミンの姓を名乗ることが許された。

 1701年にはシンビルスク総督。その後、ヴィーンやベルリンに外交使節として派遣される。

 1711年、ツァレーヴナ・アンナ・イヴァーノヴナがクールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムの未亡人としてクールラント統治のために送り込まれると、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンがそれを助けるためピョートル大帝により駐在大使として派遣された。
 以後、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンはミタウ宮廷において、政治的能力のないアンナ・イヴァーノヴナに代わって宮内長官として政治の実権を握った(1713年から15年にかけてハーグに派遣されていた期間を除き)。
 この時期、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンはアンナ・イヴァーノヴナの愛人であったと言われている(が、おそらく単なる陰口の類だろう)。

 しかしクールラント側としては、クールラントの利益よりもロシアの利益が優先される現状に不満を持つのは当然で、アンナ・イヴァーノヴナに代わるクールラント公を求めることになる。そもそもアンナ・イヴァーノヴナがクールラントに君臨するというのはかなり珍しいケースであり(前王朝の血を引かない未亡人が位を継ぐというのがそもそも稀少例)、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンはロシア側、クールラント側双方を満足させ得るような適当な男子を見つくろってはクールラント公に就けようと画策した。ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アードルフ(1685-1746)、ブランデンブルク=シュヴェット辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(1700-71)などを推したが、いずれも実現しなかった。

ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アードルフは、クールラント公の主君であるポーランド王アウグスト2世/ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世の又従兄弟。ブランデンブルク=シュヴェット辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の従兄弟。

 そもそもロシアとしては、アンナ・イヴァーノヴナがクールラントを支配している現状は非常に好都合なわけで、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンとしては良かれと思ってしたことだろうが、その行動はむしろロシアの «国益» に反するものだとも言える。おそらくそのためだろう、1720年にはピョートル・ベストゥージェフ=リューミンはリガ総督レプニーン公への報告義務を負わされることになった。
 それにも懲りず、と言うべきか、クールラント側の強硬な主張に負けたということなのだろう、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンは1726年にはモーリス・ド・サクスをクールラント公に就けようと画策。結局これまたロシア側の反発で流れた。

 モーリス・ド・サクスを巡る騒動は、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンにとってはまたまた大きな失点となった。ただでさえ1725年のピョートル大帝の死をクールラント側が «独立» 回復の好機と見ており、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンのクールラント経営はますます難しくなっていた。
 もともとピョートル・ベストゥージェフ=リューミンとサンクト・ペテルブルグとの関係は微妙なものであったが、そこにもってきて今回の失点で、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンはサンクト・ペテルブルグの信用を失ってしまった。
 そのサンクト・ペテルブルグでは、ピョートル大帝死後大貴族たちが権力を巡って争っており、クールラントは顧みられなくなっていた。このため一部大貴族が、国益ではなく私利を優先した政策を押し付けてくることになった。
 何よりも、まさにこの1726年頃、エルンスト・ビロンアンナ・イヴァーノヴナの愛人となる。ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンはかれと対立。
 こうしてピョートル・ベストゥージェフ=リューミンは1726年以降急速にクールラントにおける実権を失っていった。最終的には1728年に逮捕され、サンクト・ペテルブルグに連行された。

 1730年、アンナ・イヴァーノヴナがロシアの女帝として即位すると、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンはニージュニー・ノーヴゴロド県知事に任命される。しかしその直後、流刑。対立していたエルンスト・ビロンがサンクト・ペテルブルグに乗り込んできたためだろう。

 1742年、クーデタで女帝となったエリザヴェータ・ペトローヴナにより伯の爵位を与えられた。

 なお、ふたりの息子は外交官として活躍。特に次男アレクセイ・ペトローヴィチ伯はエリザヴェータ・ペトローヴナの治世前半、宰相としてその対外政策を指揮した。

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