ロマーノフ家人名録

パーヴェル1世・ペトローヴィチ

Павел Петрович

大公 великий князь
ツェサレーヴィチ цесаревич (1762-96)
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公 Herzog von Sleswig-Holstein-Gottorp(1762-)
海軍元帥 генерал-адмирал (1762-)
ロシア皇帝 император Всероссийский (1796-)

生:1754.09.20/10.01−サンクト・ペテルブルグ
没:1801.03.11-12/03.23-24(享年46)−サンクト・ペテルブルグ

父:皇帝ピョートル3世・フョードロヴィチ 1728-62 (ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒ
母:女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ 1729-96 (アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグスト)

結婚①:1773−サンクト・ペテルブルグ
  & ナターリヤ・アレクセーエヴナ 1755-76 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世)

結婚②:1776−サンクト・ペテルブルグ
  & マリーヤ・フョードロヴナ 1759-1828 (ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世・オイゲン)

愛人①:エカテリーナ・イヴァーノヴナ 1758-1839 (イヴァン・ドミートリエヴィチ・ネリードフ)
愛人②:アンナ・ペトローヴナ公女 1777-1805 (ピョートル・ヴァシーリエヴィチ・ロプヒーン公)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
マリーヤ・フョードロヴナと
1アレクサンドル(皇帝1世)1777-18251793エリザヴェータ・アレクセーエヴナ1779-1826カール・ルートヴィヒ・フォン・バーデンドイツ諸侯
2コンスタンティーン1779-18311796アンナ・フョードロヴナ1781-1860ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公フランツドイツ諸侯
1820ヨアンナ1795-1831アントニ・グルジニスキ伯ポーランド貴族
3アレクサンドラ1783-18011799ヨーゼフ・アントン1776-1847オーストリア大公ドイツ諸侯
4エレーナ1784-18031799フリードリヒ1778-1819メクレンブルク=シュヴェリーン大公の跡取りドイツ諸侯
5マリーヤ1786-18591804カール・フリードリヒ1783-1853ザクセン=ヴァイマール大公(1828-53)ドイツ諸侯
6エカテリーナ1788-18181809ゲオルク1784-1812オルデンブルク大公家の分家ドイツ諸侯
1816ヴィルヘルム1世1781-1864ヴュルテンベルク王(1816-64)ドイツ諸侯
7オリガ1792-95
8アンナ1795-18651816ウィレム2世1792-1849オランダ王(1840-49)君主
9ニコライ(皇帝1世)1796-18551817アレクサンドラ・フョードロヴナ1798-1860プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世ドイツ諸侯
10ミハイール1798-18491824エレーナ・パーヴロヴナ1807-73ヴュルテンベルク王子パウルドイツ諸侯

皇帝ピョートル3世・フョードロヴィチと女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナの第一子(長男)。実際的には唯一の子。

 パーヴェル・ペトローヴィチ大公の実父については、エカテリーナ2世の最初の愛人セルゲイ・サルトィコーフである、とする説が一般に広まっている。ピョートル3世との間になかなか子が生まれないことに業を煮やした女帝エリザヴェータ・ペトローヴナセルゲイ・サルトィコーフエカテリーナ2世にあてがい、パーヴェル大公が生まれた、とするものだ。エカテリーナ2世自身、回顧録の中でそれを強く示唆している。
 もっとも、エカテリーナ2世の回顧録にはかなりのバイアスがかかっているものと考えられるので、そのまま鵜呑みにはできない。エカテリーナ2世はパーヴェル・ペトローヴィチ大公を嫌っていたし、何よりパーヴェル・ペトローヴィチ大公こそが正統な皇位継承権者だったからだ。回顧録の中でエカテリーナ2世ピョートル3世との間に性的関係がなかったことすらほのめかしている(一説にはピョートル3世は包茎であったとも言われる)。しかしもし両者間に性的関係がなかったら、いかにピョートル3世でもパーヴェル・ペトローヴィチ大公を自分の子として認知したりはしなかったろう。
 しかし他方において、エカテリーナ2世の回顧録は生前は公表されておらず、後世の歴史家を念頭に書かれたものであるようだ。エカテリーナ2世が自分の皇位を護るために、正統な皇帝であるべきパーヴェル・ペトローヴィチ大公には実は正統な皇帝の血が流れていない、と主張するなら、生前に公表しなければ意味がない。そう考えると、この回想録のほのめかしも一概に否定することはできない。
 広く知られた説であるとはいえ、パーヴェル・ペトローヴィチ大公の実父がセルゲイ・サルトィコーフであるとする説は、必ずしも真実とも虚偽とも断定することはできない、と言うべきだろう。

 なお、パーヴェル・ペトローヴィチ大公の親については、ほかの説もある。たとえばエカテリーナ2世の産んだ子は死産で、エリザヴェータ・ペトローヴナがどこかから見つけてきた子が新生児とされたのだ、という説。また、パーヴェル・ペトローヴィチ大公は実はほかならぬエリザヴェータ・ペトローヴナの子である、という説まである。

 誕生直後に両親から引き離され、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナに養育される。1760年からニキータ・パーニン伯が養育係に。

 1761年、エリザヴェータ・ペトローヴナの死で父ピョートル3世が即位し、パーヴェル・ペトローヴィチ大公は皇太子となる。しかし1762年、クーデタで父が廃位され、母エカテリーナ2世が即位した。
 エカテリーナ2世はロマーノフ家の血を引いておらず、しかもピョートル3世在位中からパーヴェル・ペトローヴィチ大公が後継ぎと定められていたため、即位すべきはエカテリーナではなくパーヴェル・ペトローヴィチ大公だ、とする主張もあった。エカテリーナ2世の即位を認める人々の中にも、パーヴェル・ペトローヴィチ大公が成人した暁にはエカテリーナ2世は譲位すべきだ、との考えもあった。
 もともと誕生直後にエリザヴェータ・ペトローヴナによって取り上げられていたため、パーヴェル・ペトローヴィチ大公と母との関係は疎遠だった。加えてエカテリーナがパーヴェル・ペトローヴィチ大公を皇位のライバルと見て警戒したこともあって、余計に母子関係はこじれた。
 パーヴェル・ペトローヴィチ大公が成人した後も、かれを無視して母が女帝として君臨し続けると、パーヴェル・ペトローヴィチ大公はますます母と敵対するようになる。火に油を注いだのが、ふたりの妃であった。

 パーヴェル・ペトローヴィチ大公の最初の妃ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃はパーヴェル・ペトローヴィチ大公を毛嫌いしたが、反エカテリーナでは一致した。
 ふたり目の妃マリーヤ・フョードロヴナ大公妃は、逆にパーヴェル・ペトローヴィチ大公を真摯に愛したらしいが、義母に対する反感は前妃と共通していた。
 1777年に誕生した長男アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公、1779年に誕生した次男コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公のいずれもエカテリーナ2世に取り上げられ、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃の反感もいっそうつのったことだろう。
 もともと自身の手で育てた孫アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公を偏愛していた母エカテリーナだったが、アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公が成長するにつれて、パーヴェル・ペトローヴィチ大公を廃嫡して皇位を直接アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公に譲るのではないか、との憶測がサンクト・ペテルブルグに流れはじめる。これがますます母子関係を悪化させることになった。

 なお、父祖伝来の領土ホルシュタイン=ゴットルプ公領は、1773年にデンマークに割譲された。代わりに北ドイツにオルデンブルク伯領をもらう。これを、ホルシュタイン=ゴットルプ公家のフリードリヒ・アウグスト1世(祖父カール・フリードリヒの従兄弟で、母エカテリーナの叔父でもある)に与える。ただし、ホルシュタイン=ゴットルプ公位は保持した。
 と言っても、これはすべて母のアレンジしたことで、ホルシュタイン=ゴットルプ公であるパーヴェル・ペトローヴィチ大公は関与していない。

 1777年に長男アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公出産の «褒賞» としてパーヴロフスクを与えられる。1783年には長女アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女出産の «褒賞» としてガッチナを与えられる。以後、政治の表舞台から締め出されていたパーヴェル・ペトローヴィチ大公夫妻はパーヴロフスクとガッチナに居住。これはあるいは、パーヴェル・ペトローヴィチ大公をサンクト・ペテルブルグから締めだそうという母の思惑だったのかもしれない。
 ちなみに、パーヴェル・ペトローヴィチ大公はガッチナに自身の «小宮廷» をつくって母に対抗したが、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃はパーヴロフスクを美しく飾ることに情熱を傾けた。

パーヴロフスク Павловск はサンクト・ペテルブルグの南方29kmに位置する。ツァールスコエ・セローの近郊で、パーヴェル・ペトローヴィチ大公にちなんでパーヴロフスクと名付けられた。マリーヤ・フョードロヴナ大公妃の委託を受けたスコットランド人チャールズ・キャメロンにより壮麗な宮殿が建設される。以後、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃ミハイール・パーヴロヴィチ大公コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公と相続された。最後の主人はヨアン・コンスタンティーノヴィチ公

 パーヴェル・ペトローヴィチ大公の生物学上の父親が誰であったかはともかくとして、少なくともパーヴェル・ペトローヴィチ大公本人は自分をピョートル3世の子だと考えていた。実際、このふたりには «プロイセン信仰»、«フリードリヒ崇拝» という共通点があった。母から政務・軍務への参画を否定されていたパーヴェル・ペトローヴィチ大公は、自身の小宮廷ガッチナをプロイセン風に染め上げていった。
 特に、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃とのお見合いはベルリンで行われ、パーヴェル・ペトローヴィチ大公はこの時フリードリヒ大王(1712-86)に直接会っている。これによりさらに «プロイセン崇拝» が激化したのだろう。ガッチナ小宮廷ではかれにあてがわれた部隊の教練に熱中し、プロイセン風の軍律と軍服を導入した。軍隊だけではなく、廷臣や召使いにもプロイセン風を強制した。この小宮廷はしばしば「プロイセン風の軍律に縛られた兵営と化していた」と言われる。
 しかしその一方で、ルター派の信仰が許容され(ルター派の教会も建てられた)、農奴には土地が与えられ、かれらのための学校と病院が建てられた。ある意味で、母以上の啓蒙君主ぶりだったと言っていいだろう。

 パーヴェル・ペトローヴィチ大公は生前から狂人と見られていて、実際皇帝として即位した後の政策もかれの異常性格の現れだと見なされた。
 しかし、このイメージは実はエカテリーナ2世アレクサンドル1世とその取り巻きの言っていることを鵜呑みにした見方ではないだろうか。エカテリーナ2世にとってパーヴェル・ペトローヴィチ大公は、上述のように、自身の皇位を脅かす存在であったし、アレクサンドル1世はパーヴェル・ペトローヴィチを廃位して(殺して)帝位に就いている。つまり両者はパーヴェル・ペトローヴィチについて否定的なイメージを広めるべき深刻な動機を持っていたのだ。また貴族たちもパーヴェル・ペトローヴィチの政策によって «被害» を受けたので、中立とはとうてい言えない。
 しかし父ピョートル3世同様、パーヴェル・ペトローヴィチについても近年歴史の見直しが進められている。その際注目すべきは、上記のような利害関係を持つ連中の見解ではなく、中立的で客観的な見方のできた第三者の意見であろう。
 1781年から82年にかけて、パーヴェル・ペトローヴィチ大公はマリーヤ・フョードロヴナ大公妃とともにヨーロッパ・ツアーに出かけ、ヴィーン、ナポリ、パリを歴訪している。この時かれと会った西欧人たちは、かれの礼儀正しさや魅力的な物腰、鋭い知性と飽くなき好奇心に感心している。少なくともパーヴェル・ペトローヴィチ大公の «狂気» を云々した記述はないようだ。
 パーヴェル・ペトローヴィチ大公が性格的に難しかったのはおそらく事実だろう。しかしかれは自分でもそのことを弁えていたらしく、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃との結婚に際して彼女に以下のような «指南書» をわたしている。

Ей придется прежде всего вооружиться терпением и кротостью, чтобы сносить мою горячность и изменчивое расположение духа, а равно мою нетерпеливость. Я желал бы, чтобы она принимала снисходительно все то, что я могу выразить иногда даже, быть может, довольно сухо, хотя и с добрым намерением, относительно образа жизни, умения одеваться и т. п. Я прошу ее принимать благосклонно советы, которые мне случится ей давать, потому что на десять советов все же может быть и один хороший, допустив даже, что остальные будут непригодны. Притом, так как я несколько знаю здешнюю сферу, то я могу иной раз дать ей такой совет или высказать такое мнение, которое не послужит ей во вред. Я желаю, чтобы она была со мною совершенно на дружеской ноге, не нарушая, однако, приличия и благопристойности в обществе. Более того, я хочу даже, чтобы она высказывала мне прямо и откровенно все, что ей не понравится во мне...
彼女(マリーヤ・フョードロヴナ大公妃のこと)は何よりもまず忍耐強さと柔和さで武装しなければならない。それはわたしのすぐ熱くなる移り気な精神状態、そして忍耐力のなさに耐えるためである。生活様式について、着こなしについて等々、わたしが述べるコメントも寛大に受け入れてくれることを望みたい。あるいは時にそれは、善意に基づきながらも冷淡になるかもしれない。わたしが与えることになる助言は好意的に受け取ってもらいたい。なぜなら十のうちひとつくらいは良い助言もあるかもしれないからだ。残りが役に立たないことは大目に見て欲しい。その上、当地の社会を多少は知っているので、時には害にならない助言を与えたり考えを述べることもあるだろう。望むらくは、わたしに完全に親しみつつ、しかしながら社会の礼節や上品さを乱さぬよう。さらには、わたしについて気に入らぬことはすべて、わたしに直接、率直に述べてもらいたい……。

 さらにこんな言葉もパーヴェル・ペトローヴィチ大公の言葉として残っている。「わたしは自分が聡明なふりをするつもりはない。人が我知らず無様になるのは、真実の自分以外の何者かになろうとした時だ」。

 パーヴェル・ペトローヴィチ大公はまた、かれなりに道義と名誉を重んじていた。それもあってか、1780年代以降フリーメイソンに関心を持つ。

 母との関係を悪化させた要因のひとつが、12人にのぼる母の愛人たちの存在だったと言われる。あるいはこれに対する反発からか、パーヴェル・ペトローヴィチ大公はふたりの妃に誠実で、真摯な愛情を注いだらしい。
 しかし1785年頃、パーヴェル・ペトローヴィチ大公はエカテリーナ・ネリードヴァを愛人としている。パーヴェル・ペトローヴィチ大公本人に言わせればこれは «プラトニック» な関係であり、ふたりの間にあるのは «友情» だとのことだった。確かにエカテリーナ・ネリードヴァがパーヴェル・ペトローヴィチ大公の子を産むということはなかったが……。
 ちなみにパーヴェル・ペトローヴィチ大公には、どこまで信憑性があるのか疑わしいが、複数の愛人疑惑がある。女官ナターリヤ・フョードロヴナ・ヴェリギナ、侍女ユーリエヴァ、女優シュヴァリエ嬢など。

 1791年には、アレクセイ・アラクチェーエフがパーヴェル・ペトローヴィチ大公の側近となる。

アレクセイ・アンドレーエヴィチ・アラクチェーエフ(1769-1834)は «ガッチナ風» の権化。paradomania の典型。パーヴェル・ペトローヴィチの信任が厚かった。砲兵総監(1797-99, 99-1803)。アレクサンドル1世により失脚。ナポレオンとの緊張が高まると呼び戻され、軍事大臣(1808-10)。以後、軍事行政を牛耳る。1820年代前半には内政全般の最高責任者となる。資質的には似通っていたと思われるのだが、なぜか新帝ニコライ1世に嫌われて失脚した。伯。

 軍務に没頭したとはいえ、実戦に参加したのは対スウェーデン戦争(1788-90)の1度だけ。

 1796年、結局廃嫡されることなく、母エカテリーナ2世の死で順当にパーヴェル・ペトローヴィチ大公が即位した。

 即位後のパーヴェル・ペトローヴィチは、母の政策をことごとく覆そうとした。
 手始めに、アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されていた父ピョートル3世を、エカテリーナ2世とともにペトロパーヴロフスキー大聖堂に再埋葬する。この時パーヴェル・ペトローヴィチは亡き父の遺骸に自らの戴いていた王冠を載せた(ピョートル3世は戴冠式を済ませていなかった)。これは父と自分との皇位継承を強調し、母の皇位・治世をなかったことにする象徴的なジェスチャーだったと言えるだろう。
 ちなみに、この時61の高齢ながらまだ存命中だった父の下手人アレクセイ・オルローフ公は、ピョートル3世の棺に従って歩かされたが、パーヴェル・ペトローヴィチの復讐はそれだけだった。あれほど憎んだ母の愛人たちに対しても、プラトーン・ズーボフ公とその兄弟など、左遷・追放はしたものの特段懲罰的な措置に出てはいない。
 それどころか、母によって流刑・収監されていたアレクサンドル・ラディーシチェフやニコライ・ノヴィコーフを釈放。タデウシュ・コシチューシュコを釈放してアメリカに亡命させ、グロドノに幽閉していた前ポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに、サンクト・ペテルブルグに屋敷を与える。
 対外的にも、母の派遣したペルシャ遠征軍を呼び戻し、全面的平和を宣言する。
 このようにパーヴェル・ペトローヴィチの治世当初は全般的に平穏なうちに過ぎていった。
 しかしラディーシチェフやノヴィコーフを釈放したのは、別にかれらの思想に共感したためではない。それどころか、革命思想に対しては嫌悪感を抱いており、ここでは母の政策を引き継いで革命フランスに対する敵対的な態度を維持した。また、同じく革命思想に対する嫌悪感からか、あるいはプロイセン風の規律に対する偏愛も手伝ってか、母が晩年に行った思想の取り締まりも継続。外国の書物の輸入やロシア人の留学、あまつさえ「市民」や「社会」といった言葉の使用まで禁止し、出版物の検閲も強化した。
 ガッチナの «小宮廷» の «簡素で規律ある» プロイセン風はサンクト・ペテルブルグに徐々に持ち込まれていき、«豪奢で堕落した» フランス風を一掃していく。さらに軍隊にはプロイセン風の軍服と制度が導入された。これは父の行ったことを繰り返したわけだが、この時も軍隊はこれに反発している。それどころかプロイセン風は市民にも強要され、違反者は貴族であろうと一般庶民であろうと容赦なく追放された。

 パーヴェル・ペトローヴィチは行政改革に乗り出した。そのひとつがピョートル大帝の設置した参事会に代わる省の創設で、これは息子アレクサンドル1世の代に本格化する。
 最初に設置した省が皇室領省(1797)であったのは象徴的で、パーヴェル・ペトローヴィチは皇室のあり方に大きな関心を払っていた。

 1797年、戴冠式にあわせ、ピョートル大帝の定めた皇位継承法を廃止し、直系男子による皇位継承(サリカ法)を基本とする新たな皇位継承法を制定。
 「母に復讐するために二度と女帝が出ぬよう、女子の皇位継承権を奪った」と言われるが、そんなことはない。当時のヨーロッパ王家に一般的だった、男系を優先しつつも女系による継承の可能性を残した継承法である。母の恣意に左右されて正統な後継者である自身の継承が安定しなかったこと、そしてかれの «プロイセン風» の規律に対する偏愛が、ある意味煩瑣とも言うべきこの継承法を生み出したものと思われる。
 むしろ注目すべきは皇族の結婚相手を «王家» にのみ限定したことで、皇族の範囲とその権利・義務を規定し、特殊な役割を負わせたことと相俟って、ロマーノフ家(皇族)を貴族も含む他のロシア人とは異なる次元に置くことになった。

 パーヴェル・ペトローヴィチは戴冠式に際してさらに、日曜・祭日の農奴の賦役禁止を明文化し、「平日の6日間も、農民自身のためと領主のための仕事とに等しく分けられるべきだ」と規定した。この言葉の意味は不明確で、時には「農奴の賦役を週3日のみに限定したものだ」とも解釈される。
 また母が貴族に与えた特権はその多くを棚上げにし、農奴が領主を訴える権利を復活させ、貴族の軍役義務を復活させた。
 これらのことから、新帝に対する農奴の期待は高まったが、パーヴェル・ペトローヴィチ自身は別に農奴のためを思ってこれらの施策を行ったわけではない。事実、かれは母以上に多くの国有地農民を寵臣に分与して農奴階層を増大させている。
 これらの施策は貴族をからかうためであったとよく言われる。その真意がどこにあったかはともかくとして、結果として見ればこれらの政策は貴族のパーヴェル・ペトローヴィチに対する反感を強めるだけだった。

 私生活では、1798年に愛人エカテリーナ・ネリードヴァを追放し、代わってアンナ・ロプヒナーを愛人に。1800年に彼女をガガーリン公と結婚させたあとも、彼女に対する «友情» は変わらず。

 当時ヨーロッパでは、各国が同盟を結んで革命フランスと敵対していた。
 そもそも1792年に、フランスが革命を護るためにオーストリアに宣戦布告。プロイセンがオーストリアに同調し、いわゆる第一次対仏大同盟が成立した。調子に乗ったフランス革命政府は1793年にイギリス、オランダ、スペインにも宣戦布告。ナポリ、サルデーニャも対仏大同盟に参加した(その他のイタリア諸侯はオーストリアと同盟関係にある)。しかし1795年に先ずプロイセンが、次いでオランダとスペインが離脱し、1796年にはナポレオン(1769-1821)のイタリア遠征でナポリ、サルデーニャを含むイタリア諸侯も屈服していた。
 1797年、イタリア遠征の勝利を背景にイタリアを好き勝手に再編成したナポレオンが、パリとヴィーンに押しつけたカンポ・フォルミオ条約によって、オーストリアもフランスと講和。イギリスだけが取り残されて、第一次対仏大同盟は瓦解した。
 カンポ・フォルミオ条約によってコンデ公軍がオーストリアを追われると、パーヴェル・ペトローヴィチがこれを受け入れる。さらにプロヴァンス伯ルイ(フランス王18世)をミタウに迎え入れた。

コンデ公ルイ5世・ジョゼフ(1736-1818)はフランス王族。大革命勃発とともに亡命し、エミグレを組織して反革命軍を創設。アルザス地方で活躍した。その孫がナポレオンによって誘拐され、処刑されたアンギアン公。
 1793年にフランス王ルイ16世(1754-93)が処刑されると、すでに1792年に王制が廃止されていたにもかかわらず、王党派はその嫡男ノルマンディ公ルイ(1785-95)を «フランス王ルイ17世» として承認。1795年にノルマンディ公が死ぬと、ルイ16世の弟プロヴァンス伯ルイ(1755-1824)が «フランス王ルイ18世» を名乗った。

 1798年、ナポレオンがマルタを占領すると、聖ヨハネ騎士団(マルタを領土としていた)に対する保護を宣言。自らその総長を自称した。
 聖ヨハネ騎士団は言うまでもなくカトリックの修道騎士団であり、正教徒たるパーヴェル・ペトローヴィチが何を考えていたのかよくわからない。ただ単に聖ヨハネ騎士団が体現している(とかれに思われた)中世騎士道に魅せられていただけのことだろう。

聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)は、神殿騎士団(テンプル騎士団)と並ぶ代表的な修道騎士団。ローマ教皇直属の組織である。いずれも第1回十字軍(1096-99)を淵源としているが、もともと病院経営を行う修道士が武装化して成立した聖ヨハネ騎士団は(ホスピタルの名の由来はここにある)、騎士が修道士化した神殿騎士団と異なり、騎士というものが形骸化した中世末期以降もその存在意義を失うことなく生き延びた(神殿騎士団は14世紀初頭に解散させられた)。本拠地イェルサレムが13世紀にイスラーム勢力の手に堕ちた後は、まさに神殿騎士団の解散した時期に獲得したロードス島にちなんでロードス騎士団と呼ばれ、さらにその後本拠地を移したマルタにちなんでマルタ騎士団と呼ばれた。1798年にマルタを失った後は本拠地を持たないが、現在もマルタ騎士団の通称でヴァティカンに存続している(事実上単なる勲章制度と化しているが)。

 さらにこの年、フランス嫌いが嵩じて、ナポレオンのエジプト遠征でフランスと交戦状態にあった仇敵オスマン帝国との同盟にすら踏み切った(図式的にはこれが第二次対仏大同盟で、さらにナポリが加わる)。フョードル・ウシャコーフ率いるロシア海軍はオスマン海軍と共同してフランス海軍をイオニア諸島から追い払っている。

フョードル・フョードロヴィチ・ウシャコーフ(1745-1817)は海軍軍人。黒海艦隊司令官として露土戦争(1787-91)で活躍し、地中海遠征(1798-1800)でフランスを牽制。陸軍のスヴォーロフと並ぶ海軍の大立者だったが、海軍力を軽視したアレクサンドル1世により退役。

 1799年、ハプスブルク家の皇帝フランツ2世(1768-1835)と同盟し(オーストリアが対仏大同盟に参加し)、長女アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女をオーストリア大公ヨーゼフ・アントンと、次女エレーナ・パーヴロヴナ大公女をメクレンブルク=シュヴェリーン公の跡取り息子フリードリヒ・ルートヴィヒと結婚させる。
 さらにはナポレオンがフランスの支配下に置いていたイタリアを解放するため、遠征軍を派遣。アレクサンドル・スヴォーロフ率いる陸軍とフョードル・ウシャコーフ率いる海軍が北イタリアを転戦し、ミラノ(ハプスブルク家領北イタリアの主都)を、さらにはトリノ(サルデーニャ王国の首都)を解放。
 パーヴェル・ペトローヴィチはさらにイギリスと同盟を結び、スペインにも宣戦を布告している(スペインは当時フランスの唯一の同盟国だった)。
 スヴォーロフ率いる遠征軍はアルプス越えを敢行し、これもナポレオンによりフランスの «属国» とされていたスイスに進軍。

 しかしこの段階で、パーヴェル・ペトローヴィチの外交政策は180度転換する。
 ブリュメールのクーデタでナポレオンが第一執政として実権を掌握すると、ナポレオンを反革命のチャンピオンと見なしてやがてナポレオン崇拝に感染したわけだ。

ブリュメールのクーデタ(1799年)は、総裁政府が機能不全に陥った中、国民の人気の高かったナポレオンが一気に軍事クーデタで総裁政府を打倒。執政政府を樹立し、自ら第一執政となって政治権力を握った。

 同盟国ハプスブルク家も、フランスから解放した北イタリアを正統な支配者に返還するより自国に併合しようとして、パーヴェル・ペトローヴィチの失望を買う。
 しかも、イギリスがナポレオンからマルタを奪って占領すると、マルタを聖ヨハネ騎士団に返還することを主張していたパーヴェル・ペトローヴィチは、イギリスと断交。航海の自由を掲げて反英的中立政策を主張。
 こうして同盟国に対する反感を募らせたパーヴェル・ペトローヴィチは対仏大同盟から撤退し、スヴォーロフとウシャコーフの遠征軍を呼び戻す。あまつさえ1800年にはナポレオンと反英同盟を結ぶにいたった(1801年には庇護していたプロヴァンス伯をキールに追放)。
 1801年、武装中立政策を提唱し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770-1840)、スウェーデン王グスタフ4世・アドルフ(1778-1837)、デンマーク王太子フレデリク(6世)(1768-1839)も賛同している。
 ナポレオンの東洋遠征計画に賛同し、1801年にドン・コサックをインドに派遣。
 これと関連してか、ザカフカージエへもこの頃積極的に進出している。カルトリ=カヘティ王国は1795年にカージャール朝に併合されていたが、パーヴェル・ペトローヴィチが復興させていた。1800年、最後の王ギオルギ12世(1746-1800)の死で、パーヴェル・ペトローヴィチはこれをロシアに併合した。またオスマン帝国の強い影響下にあったイメレティ王国でも、ミングレリアとグリアの領主がパーヴェル・ペトローヴィチに接近。逆にオスマン帝国の力を背景に両者を抑え込もうとしたイメレティ王との間に、ロシアとオスマン帝国の代理紛争が勃発していた。

 パーヴェル・ペトローヴィチは猜疑心が強く、自身の皇位、さらには身の安全に常に不安を覚えていて、1801年にはサンクト・ペテルブルグ市内に新たに建設したミハイロフスキー城に一家を挙げて閉じこもってしまった。

 後継者が前任者の政策を転換すると、前任者の下で活躍していた人々は反感を覚えるものだが、それにしてもパーヴェル・ペトローヴィチの治世はあまりにエカテリーナ2世の下で貴族たちが享受していたものとは異なっていた。経済的にも、ロシアは古くからイギリスとの貿易上のつながりが強く(この頃は穀物を輸出し贅沢品を輸入していた)、パーヴェル・ペトローヴィチが1800年に反英政策に転じたことは貴族たちに大打撃を与えた。

 しかしおそらく貴族たちをパーヴェル・ペトローヴィチから離反させた最大の要因は、その無原則かつ不安定な政策、なかんずく人事にあったものと思われる。多くの廷臣がパーヴェル・ペトローヴィチ即位後に一度は失脚や左遷を経験しており、パーヴェル・ペトローヴィチの気まぐれでいつまた現在の地位を失うか戦々恐々としていたのである。
 パーヴェル治下に信任を得たアレクセイ・アラクチェーエフ、ピョートル・パーレン、フョードル・ロストプチーンなどですら、いずれも一度は失脚の憂き目を見ている。そのような経験がないのはイヴァン・クタイソフぐらいだろうか。

ピョートル・アレクセーエヴィチ・パーレン/ペーター・ルートヴィヒ・フォン・デア・パーレン(1745-1826)はリヴォニア出身のドイツ系貴族。クールラント知事だったが、1797年に失脚。その後復権し、パーヴェル治下の最高実力者となる。サンクト・ペテルブルグ軍事知事(1798-1801)。クーデタ実行の責任者として、アレクサンドル1世に忌避され、左遷。伯。
 フョードル・ヴァシーリエヴィチ・ロストプチーン(1763-1826)は軍人。パーヴェルの下で外交を牛耳る。1799年以降親仏政策を推進。アレクサンドル1世の即位で失脚。復活してモスクワ総司令官(1812-14)。モスクワ大火事の責任者と言われるが、本人は否定(ちなみにロシアでは大火事は «戦略» として称賛されている)。伯。娘ソフィヤ・フョードロヴナ(1799-1874)はフランス貴族のセギュール伯と結婚し、文筆家として知られる。
 イヴァン・パーヴロヴィチ・クタイソフ(1759-1834)はトルコ系で、ロシアの捕虜となり、パーヴェル・ペトローヴィチの小姓となる。パリとベルリンで理髪師として修業し、パーヴェル・ペトローヴィチの最も信頼する寵臣となった。伯。次男アレクサンドル・イヴァーノヴィチ伯(1784-1812)は祖国戦争の英雄。

 パーヴェル・ペトローヴィチを廃位させる計画は、すでに早くから存在したようだが、具体化したのはニキータ・パーニン伯によってである。これにオーシプ・デ・リーバス、イギリス大使チャールズ・ウィットワースも加わって、1801年のクーデタがスタートした。かれらを結び付けたのが、プラトーン・ズーボフ公の姉オリガ・ジェレプツォーヴァ夫人であった。やがてオーストリア大使コベンツル伯ルートヴィヒやレオーンティイ・ベニグセン将軍なども加わり、1799年内にはすでにクーデタ計画ができあがっていたらしい。しかし1800年にはコベンツル伯とウィットワースが国外退去処分。さらにパーニン伯が失脚し、デ・リーバスが死亡して、主要メンバーは軒並み姿を消すことになった。
 クーデタ計画を引き継いだのは、パーヴェル・ペトローヴィチの右腕として、この世の栄華を欲しいままにしていたピョートル・パーレン。しかしかれ自身、すでにパーヴェル・ペトローヴィチによって2度も左遷させられていた。同じくパーヴェル・ペトローヴィチによって憂き目を見ていたズーボフ兄弟などを含めて、ピョートル・パーレンは多数の同調者を得る。
 皇太子アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公の諒解を得たかれらは、1801年、パーヴェル・ペトローヴィチを殺害。首謀者ピョートル・パーレンは「オムレツをつくるには卵を割らなければならない」と述べて、暗にパーヴェル殺害を示唆していたと言われる。しかしその一方で、かれらはパーヴェル・ペトローヴィチに署名させる退位宣言書を携えており、パーヴェル殺害が既定路線であったとばかりも言えないようだ。

ニキータ・ペトローヴィチ・パーニン伯(1770-1837)はパーヴェル・ペトローヴィチの養育係の甥。ベルリン特使(1797-99)、副宰相(1799-1800)として英墺との同盟を推進したが、パーヴェル・ペトローヴィチがナポレオンとの同盟に転じたことにより1800年に失脚。
 オーシプ・ミハイロヴィチ・デ・リーバス/ホセ・パスカル・ドミンゴ・デ・リバス・イ・ボイノス(1749-1800)はナポリ出身のスペイン人。海軍軍人。1772年にアレクセイ・オルローフ公に誘われロシア軍へ。その後イヴァン・ベツコーイ、グリゴーリイ・ポテョームキン公の庇護を受け、1789年にはオデッサを建設。
 レオーンティイ・レオーンティエヴィチ・ベニグセン/レヴィン・アウグスト・フォン・ベニグセン(1746-1826)はドイツ人。1773年にロシア軍へ。職業軍人で、およそありとあらゆる戦争に従軍。祖国戦争にも従軍したが、クトゥーゾフと対立。1818年、ハノーファーに帰国。伯。
 ズーボフ兄弟のニコライ・アレクサンドロヴィチ(1763-1805)、ドミートリー・アレクサンドロヴィチ(1764-1836)、ヴァレリアーン・アレクサンドロヴィチ(1771-1804)は、長兄プラトーンの栄誉に与ってエカテリーナ2世時代には我が世の春を謳歌していた。パーヴェル・ペトローヴィチの即位とともに失脚、左遷されていたが、1800年に特赦で復権していた。

 クーデタで現在の皇帝を廃するのは、ロマーノフ家ではこれが3度目にして最後。

 後を継いだアレクサンドル1世は、クーデタの真相を糊塗して、脳卒中で倒れたとして普通に葬儀を営み、父をペトロパーヴロフスキー大聖堂に埋葬している。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロマーノフ家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system