オレーグ・コンスタンティーノヴィチ
Олег Константинович
公 князь императорской крови
生:1892.11.15/11.27−サンクト・ペテルブルグ
没:1914.09.29/10.12(享年21)−ヴィリノ(現ヴィリニュス、リトアニア)
父:コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 1858-1915 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公)
母:エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)
結婚:なし
子:なし
コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の第五子(四男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)の従兄弟。
コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の子らの中で最も優れていたとされ、特に父にならって音楽と文学(詩)に才があったと言われる。
特に幼少時からアレクサンドル・プーシュキンを偶像視していた。そのため、中等教育こそロマーノフ家の伝統に従って陸軍幼年学校で受けたが、1910年に卒業すると、ロマーノフとしては初めて(で最後)«普通の学校»(軍事教育施設ではない学校)アレクサンドロフスキー・リツェイに入学することを許された。言うまでもなくアレクサンドロフスキー・リツェイはプーシュキンの母校である。
もっともオレーグ・コンスタンティーノヴィチ公は肺が弱く(ロマーノフはみなそうだ)、陸軍幼年学校やリツェイで学んだと言っても、実際には教師を出張させて自宅で講義を受けた。
1913年、リツェイを卒業。軍務に就くとともに、プライベートではプーシュキンの伝記の執筆に取り組んだ。また、リツェイに残るプーシュキンの自筆の詩や書簡を刊行する事業も開始(ただし戦争のため中途で断絶を余儀なくされた)。
アレクサンドロフスキー・リツェイ Александровский лицей は、皇帝アレクサンドル1世が1810年にツァールスコエ・セローに建てた貴族のための高等教育機関。元来はツァルスコセーリスキー・リツェイ Царскосельский лицей と呼ばれていたが、1843年にサンクト・ペテルブルグに移転した際に、創立者にちなんで改名された。帝政時代を通じて最も高い権威を誇った。アレクサンドル・プーシュキンはそこの1期生。と言うより、ロシア人にとっては、アレクサンドロフスキー・リツェイはプーシュキンが学んだ学校、という認識。
オレーグ・コンスタンティーノヴィチ公はプーシュキンの研究をしただけではなく、自らも筆を取って詩、小説、戯曲などを書いた。ただし生前は公表されず、死後も自筆原稿の形でとどまっているものがほとんどである。
また、祖父コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の伝記にも取り組んでいた。
一時は又従姉妹ナデージュダ・ペトローヴナ公女(ピョートル・ニコラーエヴィチ大公の末娘)と婚約。
第一次世界大戦が勃発すると、オレーグ・コンスタンティーノヴィチ公は兄たちとともに前線へ。北西戦線で戦うが、ドイツ軍の銃弾に倒れ、後方で緊急手術を受けたが助からなかった。急遽かけつけた家族に看取られ、死去。
「Я так счастлив, так счастлив. Это нужно было. Это поднимет дух. В войсках произведет хорошее впечатление, когда узнают, что пролита кровь Царского Дома. (とても幸せです。これは必要だったんです。これが士気を高揚させるんです。皇室の血が流されたと知れば、兵士たちにもいい印象があるはずです)」と言ったらしい。
戦場に倒れた唯一のロマーノフとなった。
父の要望により、ペトロパーヴロフスキー大聖堂ではなく、モスクワ郊外にある父の所領オスターシェヴォに葬られた。