ニコライ・ニコラーエヴィチ・ロマーノフスキー
Nicolas de Beauharnais, Николай Николаевич Романовский
ボガルネ伯 граф Богарне (1879-)
ロイヒテンベルク公 герцог Лейхтенбергский (1890-)
生:1868.10.05/10.17−ジュネーヴ(スイス)
没:1928.02.17/03.02(享年59)
父:第4代ロイヒテンベルク公ニコラ・ド・ボーアルネ 1843-91
母:ナデージュダ・セルゲーエヴナ 1840-91 (セルゲイ・ペトローヴィチ・アンネンコフ)
結婚:1894
& マリーヤ・ニコラーエヴナ伯女 1869-1948 (ニコライ・パーヴロヴィチ・グラッベ伯)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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マリーヤ・グラッベと | |||||||
1 | アレクサンドラ | 1895-1969 | 1916 | レヴォン公 | 1893-1928 | ピョートル・メリコフ公 | ロシア貴族 |
1922 | ニコライ | 1894-1926 | イヴァン・テレシチェンコ | ||||
2 | ニコライ | 1896-1937 | 1919 | オリガ | 1898-1921 | ニコライ・フォミーン | |
1928 | エリーザベト | 1906-99 | ゲオルク・ミューラー=ヒムラー | ドイツ人 | |||
3 | ナデージュダ | 1898-1962 | 1929 | アレクサンドル | 1885-1953 | ヤーコフ・モギリョーフスキー | |
4 | マクシミリアン | 1900-05 | − | ||||
5 | セルゲイ | 1903-66 | 1925 | アンナ | 1900- | アレクサンドル・ナウーモフ | ロシア貴族 |
1939 | キーラ | 1915- | ニコライ・ヴォルコフ | ||||
オリガ | 1926- | セルゲイ・ビックベルク | |||||
6 | ミハイール | 1905-28 | − | ||||
7 | マリーヤ | 1907-92 | 1929 | ニコライ伯 | 1899-1973 | ドミートリー・メングデン伯 | ロシア貴族 |
バイエルン(ドイツ)貴族・ロシア貴族ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公の第一子(長男)。正教徒。
かれが10歳の時、両親が結婚。ニコライ・ニコラーエヴィチと弟ゲオルギー・ニコラーエヴィチは当然婚外子として、それ以前に貴賎結婚から生まれた子として、父の称号・権利を継ぐ何の権利も持たなかった。
1890年の父の死に際して、皇帝アレクサンドル3世によりロマーノフスキーの姓を継ぐことが特別に許された(ただしロマーノフ家の一員とは認められなかった)。
加えて、バイエルン貴族としてのロイヒテンベルク公位は叔父エヴゲーニー・マクシミリアーノヴィチ公が継いだが、ニコライ・ニコラーエヴィチと弟ゲオルギー・ニコラーエヴィチにはこれとは別にロシア貴族としてのレイフテンベルグスキー公位 герцог Лейхтенбергский が与えられた。
軍人となり、プレオブラジェンスキー連隊などに勤務。最終的には陸軍少将となっている。
第一次世界大戦では第12トゥルケスターン狙撃連隊を指揮。
十月革命後は、白衛軍に参加。ウクライナにおける反ボリシェヴィキー運動のリーダーのひとりとなり、ドン・コサックのアタマーン、ピョートル・クラスノーフ(1869-1947)の大使としてベルリンに赴き、皇帝ヴィルヘルム2世から武器支援の約束を取り付けたりもしている。
しかし最終的には白衛軍の敗北とともに亡命。父祖の地バイエルンに落ち着いた。