ロマーノフ家人名録

ニコライ・ミハイロヴィチ

Николай Михайлович

大公 великий князь

生:1859.04.26/05.14−ツァールスコエ・セロー
没:1919.01.29(享年59)−ペトロパーヴロフスカヤ要塞

父:ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 1832-1909 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ
母:オリガ・フョードロヴナ大公妃 1839-91 (バーデン大公レーオポルト1世)

結婚:なし

子:?

ミハイロヴィチ。ミハイール・ニコラーエヴィチ大公の第一子(長男)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。同じく従姉妹にギリシャ王妃オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女とスウェーデン王妃ヴィクトリア(1862-1930)がいる。

 ニコライ・ミハイロヴィチ大公が3歳の時に父はカフカーズ副王に任命される。以後ニコライ・ミハイロヴィチ大公は家族とともにティフリス(現トビリシ、グルジア)で暮らした。

 若い頃は昆虫学に興味を持ち、論文を発表したりもしていた。それが評価され、1877年、まだ18歳でフランス昆虫学会の会員に選ばれたりもしている。

 露土戦争(1877-78)に従軍。従兄弟ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公ニコライ・ニコラーエヴィチ大公に次いでニコラーエフスキー参謀本部アカデミーに学ぶ(1882-85)。卒業後は参謀本部に勤務。1897年、ゆかりのカフカーズ擲弾兵師団の司令官に任命される。
 1903年、陸軍中将で退役した。

 若い頃、伯父バーデン大公フリードリヒ1世(1826-1907)の娘ヴィクトリア(1862-1930)と愛し合ったが、従兄弟であったがゆえにロシア正教会(と叔父アレクサンドル2世)から結婚を許されず。1881年、ヴィクトリアはスウェーデン王グスタフ5世(1858-1950)と結婚した。
 その後パリ伯フィリップ(元フランス王ルイ・フィリップの孫)の長女アメリー(1865-1951)と結婚しようとするが、カトリックを嫌う一族からこれまた許されなかった(アメリーは1886年にポルトガル王カルロスの妃となる)。あるいは時代が悪かったのか。1890年代初頭には皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公とアメリーの妹エレーヌ(1871-1951)との結婚話が持ち上がっている。
 ニコライ・ミハイロヴィチ大公はその後生涯独身を貫く。とはいえ、幾多の愛人がいたらしく、私生児もあったようだ。

 ロマーノフの常に漏れず軍人として育てられ軍務をこなしてきたが、心情的には平和主義者だったらしい。それでも参謀本部アカデミーに入学したのは、勉学が好きだったからだろう(父を喜ばせたいという思いもあったらしい)。昆虫学(特に鱗翅類、要するに蝶々)のほかに果樹園芸学(?)にも精通し、歴史学者でもあった。
 1903年の退役後は、昆虫学以上に歴史学にのめりこんでいった。
 積極的に大伯父アレクサンドル1世の治世を中心にロシア史に関する学術論文を発表する。その研究は高く評価され、ロシア歴史協会の会長となったほか、フランス学士院の会員ともなり、ベルリン大学から Ph. D.(1910年)、モスクワ大学から歴史学の名誉博士号(1915年)を授与されている。

 ロマーノフの中では比較的リベラルで知られたミハイロヴィチの中でも特に進歩的な思想の持ち主で(自分では «社会主義者» と言っていた)、フランスびいきで知られていた(当時のロシア宮廷ではフランスは革命思想の温床として嫌われていた)。若い頃には連隊仲間から «フィリップ・エガリテ» と呼ばれて喜んでいたという。
 ただし親思いで、父が生きている間は自分の意見を大っぴらに言うことを多少は自重したらしい(レフ・トスルトーイに手紙でそう言っている)。

フィリップ・エガリテ Philippe Égalité とは、オルレアン公ルイ・フィリップ2世(1747-93)のこと。1789年の時点で王位継承順位第6位のフランス王族だったが、若い頃から王権と対立し、革命の進行に伴い過激化。エガリテ(平等)の姓をもらってフィリップ・エガリテと改名。ジャコバン派に同調し、1792年にはルイ16世の処刑に賛成した。しかし息子(のちのフランス王ルイ・フィリップ)が亡命したことで立場が揺らぎ、結局は革命政府により処刑された。

 コンスタンティーノヴィチのコンスタンティーン大公ドミートリー大公兄弟は、同じくリベラル気質であったのに誰からも好かれた。他方コンスタンティーノヴィチと違い、ミハイロヴィチの、特にニコライ大公のリベラリズムは帝政否定に傾いていて、特に保守的な一族からは嫌われていた(皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナなど)。もっとも、かれの方も嫌っていたからおあいこだ(特にニコライ・ニコラーエヴィチ «ムラートシー» 大公)。
 とはいえ、ニコライ・ミハイロヴィチ大公には人間的な魅力があったらしく、保守であっても皇太后マリーヤ・フョードロヴナの信任は篤く、ニコライ2世とも親しかった。
 特に父が1903年に倒れ、1909年に死去すると、ミハイロヴィチの家長としてロマーノフ家内で重きをなした。
 ちなみに、父の死でサンクト・ペテルブルグ市内にミハイロフスキー宮殿を相続し、ここに住んだ。

 第一次世界大戦勃発時には退役して久しく、前線指揮は執らなかった。代わりに南西戦線の司令部に勤務し、病院を慰問したりしている。
 平和主義者のニコライ・ミハイロヴィチ大公は、大量の負傷兵を目の当たりにして衝撃を受けたらしい。そのためもあり、また元々嫌っていたこともあって、最高総司令官ニコライ・ニコラーエヴィチ大公の戦争指揮を痛烈に批判。矛先はロシア政府にも及び、ニコライ2世に首相批判や皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ批判の手紙を書き送ったりしている。
 ついに堪忍袋の緒が切れたのか、1916年、ニコライ2世は宮廷クーデタ計画(«大公たちのフロンド»)に参画した咎でニコライ・ミハイロヴィチ大公に所領での蟄居を命じた。もっとも «大公たちのフロンド» の実態はクーデタ計画などというものではなく、ただ単に反アレクサンドラ・フョードロヴナ、さらには反ニコライ2世の気分を持つ大公たちが互いに憤懣をぶちまけあっていた、という程度のもの。あるいはマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃あたりは実際に何らかの画策をしたのかもしれないが。

フロンド Fronde とはルイ14世(1638-1715)の幼年期に起こったフランス国内の騒乱。«高等法院のフロンド»(1648-49)は、王権に対するパリの叛乱。一方 «貴族のフロンド»(1650-53)は、王権と大貴族の対立をきっかけに地方が起こした叛乱。どちらも進展する絶対王政の強化に対する反発が根にあった。

 二月革命後ペトログラードに帰還。臨時政府に接近し、首相アレクサンドル・ケーレンスキーに大公たちの所領没収や皇位継承権剥奪などを提案したとされる。
 十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキーは、当初はロマーノフ家の男子に登録させ、ペトログラードから出ることを禁じるだけで満足していた。しかし1918年春には国内流刑へと方針変更。ニコライ・ミハイロヴィチ大公は、従兄弟ドミートリー・コンスタンティーノヴィチ大公とともにヴォーログダに追放される。そこで弟ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公と合流。ニコライ2世一家処刑後、ペトログラードに戻される。
 1919年、ペトロパーヴロフスカヤ要塞にて、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公と共に、ボリシェヴィキーにより処刑される。
 ニコライ・ミハイロヴィチ大公の助命を、マクシム・ゴーリキーや科学アカデミー総裁アレクサンドル・カルピンスキーが嘆願したらしいが、容れられなかった。

 背は6フィート3インチ(188 cm)あった。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロマーノフ家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system