ニコライ・マクシミリアーノヴィチ・ロマーノフスキー
Nicolas de Beauharnais, Николай Максимилианович Романовский
ロマーノフスキー公 светлейший князь Романовский
第4代ロイヒテンベルク公 Herzog von Leuchtenberg/герцог Лейхтенбергский (1852-)
生:1843.07.23/08.04−サンクト・ペテルブルグ
没:1890.12.25/1891.01.06(享年47)−パリ(フランス)
父:第3代ロイヒテンベルク公マクシミリアン・ド・ボーアルネ 1817-52
母:マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女 1819-76 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ)
結婚:1878
& ナデージュダ・セルゲーエヴナ 1840-91 (セルゲイ・ペトローヴィチ・アンネンコフ)
ヴラディーミル・ニコラーエヴィチ・アキンフォフ妃
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ナデージュダ・アンネンコヴァと | |||||||
1 | ニコラ/ニコライ | 1868-1928 | 1892 | マリーヤ | 1869-1948 | ニコライ・パーヴロヴィチ・グラッベ伯 | ロシア貴族 |
2 | ジョルジュ/ゲオルギー | 1872-1929 | 1895 | オリガ | 1872-1953 | ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニーン公 | ロシア貴族 |
バイエルン(ドイツ)貴族マクシミリアン・ド・ボーアルネの第三子(長男)。正教徒。
ロマーノフ家の一員。皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの甥。
フランス語ではニコラ・ド・ボーアルネだが、ロシア語ではニコライ・マクシミリアーノヴィチ・ロマーノフスキー公 князь Николай Максимилианович Романовский、あるいはその称号にちなんでニコライ・マクシミリアーノヴィチ・レイフテンベルグスキー公 герцог Николай Максимилианович Лейхтенбергский と呼ばれる。たぶん後者の方が一般的。ちなみにドイツ語のロイヒテンベルクはロシア語ではレイフテンベルグとなる。
1862年、ギリシャ王オソン1世がクーデタで位を追われた際、ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公の名が後継のギリシャ王候補として挙がった。アレクサンドル2世の甥ゆえに候補とされたのだろうが、逆にそのためにイギリスの反対で王位を逃した。
ちなみにフランス皇帝ナポレオン3世もニコライ・マクシミリアーノヴィチ公を推した。他方、地元ギリシャ国民は、同じ正教徒であるニコライ・マクシミリアーノヴィチ公よりも、イギリス王子アルフレッドを支持した。ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公がギリシャ王になれば、ロシアの汎スラヴ主義に呑み込まれてしまうと危惧した一方で、地中海の覇権を握るイギリスとのつながりを強めたいと願ったのである。しかし当のイギリス女王ヴィクトリアは、息子をギリシャ王にする気はなく、かと言ってロシア皇帝の甥も嫌った。結局列強の話し合いの結果、ゲオルギオス1世が押し付けられた。
父の影響か鉱業に関心を持ち、サンクト・ペテルブルグの鉱業学校を卒業している。ロマーノフ家の一員として軍人として育てられ、ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公も1865年には陸軍少将となっているが、ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公はあくまで鉱山関係の専門家として、その関係の官庁に勤務した。
1863年、人妻だったナデージュダ・アキンフォヴァと出会う。しかしニコライ・マクシミリアーノヴィチ公の結婚には、ロマーノフ家の一員として皇帝の承認が必要だったが、人妻との結婚をアレクサンドル2世は許可しなかった。
1868年、ナデージュダ・セルゲーエヴナはジュネーヴでニコライ・ニコラーエヴィチ公を生む。一旦は帰国するものの、社交界から無視され、再び外国へ。
1869年、ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公は彼女と息子を追って出国。事実上ロシア国籍を棄てた。以後、ふたりは外国に居住。
ナデージュダ・セルゲーエヴナの離婚請求を夫ヴラディーミル・アキンフォフは拒み続けたが、ようやく1877年にこれを認める。こうして1878年、晴れてふたりは結婚した。
事実上ロシア国籍を棄てた状態にはあったが、露土戦争(1877-78)には従軍。功績も立てた。
1879年、ナデージュダ・セルゲーエヴナにボガルネ伯妃 графиня Богарне の称号が与えられた。これはあるいは、露土戦争におけるニコライ・マクシミリアーノヴィチ公の功績に報いるものだったのかもしれない。
ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公は1881年にアレクサンドル2世の葬儀に参列したほかはロシアに足を踏み入れなかったが、続く皇帝アレクサンドル3世により帰国を許される。1890年には騎兵将官としての階級も復活され、アレクサンドル3世の副官に任じられた。
セールギエフ・ポサードにある三位一体セールギー大修道院に埋葬されている。
ニコライ・マクシミリアーノヴィチ公はロマーノフ家の一員としてペトロパーヴロフスキー大聖堂に葬られる権利があったが、そこだとナデージュダ・セルゲーエヴナと一緒になれない(ナデージュダはロマーノフ家の霊廟には葬られない)として、遺言でセールギー大修道院への埋葬を望んだ。その望み通り、5ヶ月後に死んだナデージュダはニコライ・マクシミリアーノヴィチ公の隣に埋葬された。
ちなみに、モスクワ郊外のこの大修道院は古くから大貴族たちの墓所として使われており、ボリース・ゴドゥノーフも葬られている。
その死にあたり、バイエルン爵位としてのロイヒテンベルク公位 Herzogtum Leuchtenberg は次弟エヴゲーニー・マクシミリアーノヴィチ公により相続された。
ふたりの息子は貴賎結婚から生まれた子であったため、ロマーノフ家の一員ではなく、当然称号を相続する権利も持たなかったが、アレクサンドル3世の特別の許可によりロマーノフスキーの姓を相続することが認められた。