ニキータ・ロマーノヴィチ・ユーリエフ=ザハーリイン
Никита Романович Юрьев-Захарьин
ボヤーリン боярин (1563?-)
生:?
没:1586・89(享年?)
父:ロマーン・ユーリエヴィチ・ザハーリイン -1543?
母:ウリヤーナ или アナスタシーヤ・フョードロヴナ -1579
結婚①:
& ヴァルヴァーラ・イヴァーノヴナ・ホヴリナ -1553?
結婚②:
& フェオドーシヤ公女/エヴドキーヤ公女? (アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ゴルバートィー=シュイスキー公)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ヴァルヴァーラと? フェオドーシヤ(エヴドキーヤ)と? | |||||||
1 | フョードル | 1554-1633 | 1585? | クセーニヤ | -1631 | イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シェストーフ | コストロマーの貴族 |
フェオドーシヤ(エヴドキーヤ)と | |||||||
2 | アレクサンドル | -1601 | − | ||||
3 | アンナ | -1585 | イヴァン公 | -1621 | フョードル・ミハイロヴィチ・トロエクーロフ公 | リューリコヴィチ | |
4 | ウリヤーナ | -1565 | |||||
5 | ミハイール | -1601 | − | ||||
6 | イヴァン | -1640 | ウリヤーナ公女 | -1650 | フョードル・リティノフ=モサーリスキー公 | リューリコヴィチ | |
7 | エフフィーミヤ | -1602 | イヴァン公 | -1608 | ヴァシーリー・イヴァーノヴィチ・シーツキー公 | リューリコヴィチ | |
8 | マルファ | -1610 | ボリース公 | -1601 | カンブラート・チェルカースキー公 | チェルケース人 | |
9 | ヴァシーリー | -1602 | − | ||||
10 | イリーナ | -1639 | イヴァン | -1610 | イヴァン・ゴドゥノーフ | ||
11 | レフ | -1595 | − | ||||
12 | アナスタシーヤ | -1655 | ボリース公 | 1576-1646 | ミハイール・ルィコフ=オボレーンスキー公 | リューリコヴィチ | |
13 | ニキータ | -1598・1602 | − |
ロマーン・ユーリエヴィチの三男(末男)。
生年は不明で、アナスタシーヤ・ロマーノヴナとの長幼の順もわからない。ただし一般的にはニキータ・ロマーノヴィチが兄、アナスタシーヤ・ロマーノヴナが妹とされているようだ。アナスタシーヤ・ロマーノヴナの生年も不明だが、おそらくイヴァン雷帝とさほど変わらない年齢だったと見られ、とするならばニキータ・ロマーノヴィチは1520年代の生まれということになろう。
1547年、イヴァン雷帝(1530-84)が戴冠式に合わせてアナスタシーヤ・ロマーノヴナと結婚。
ニキータ・ロマーノヴィチはイヴァン雷帝の義理の兄弟となったが、雷帝の側近たち «イーズブランナヤ・ラーダ» による統治(1547-65)、オプリーチニナ体制(1565-72)では、さほど目立たぬ存在だった。むしろ中級の軍事司令官として各地に派遣されている。
もっともかれにはダニイール・ロマーノヴィチという兄がおり、1565年に死ぬまではダニイールがロマーノヴィチ兄弟の中心人物として活躍していた(もっとも兄の生前にニキータ・ロマーノヴィチもボヤーリンとなっている)。
まさに1565年に始まったオプリーチニナ体制の主役であったマリュータ・スクラートフと、ニキータ・ロマーノヴィチは対立していたと言われる。
他方で、リヴォニア戦争(1558-83)では活躍し、数度にわたり軍を率いている。また外国使節との交渉にも携わった。要は、使い勝手のいい中堅貴族、といったところか(一族の祖先は大貴族と言っていいだろうが、ニキータ・ロマーノヴィチの系統は分家で、父も兄もあまりパッとしなかった)。
1584年、イヴァン雷帝の死に際して、遺児で後継者のフョードル1世(1557-98)を補佐する5人の «摂政» の一員に選ばれる。
この時 «摂政» に選ばれたのは、ニキータ・ロマーノヴィチのほかには、大貴族の筆頭格だったイヴァン・ムスティスラーフスキー公(ゲディミノヴィチ)とイヴァン・シュイスキー公(リューリコヴィチ)、フョードル1世の義兄ボリース・ゴドゥノーフ、そしてイヴァン雷帝の寵臣であったボグダーン・ベリスキー(-1611)であった。この中でニキータ・ロマーノヴィチは、イヴァン・ムスティスラーフスキー公やイヴァン・シュイスキー公と経歴や家格では太刀打ちできなかったものの、年齢的にはおそらくさほど変わらず、何よりフョードル1世の実の伯父という立場からして、«摂政» の筆頭格にあった。
しかしすぐに権力闘争が勃発。その中心となったのは、ツァーリの義兄として実権を握ったボリース・ゴドゥノーフであり、イヴァン・ムスティスラーフスキー公、イヴァン・シュイスキー公、そしてボグダーン・ベリスキーは相次いで失脚、左遷の憂き目を見た。これに対してニキータ・ロマーノヴィチは、権力闘争にはおそらくかかわっておらず、権力の座にとどまったまま死を迎えた。これは一般的に、すでに早くから病に冒されていたためだと言われる。
その一方で、ニキータ・ロマーノヴィチがボリース・ゴドゥノーフと良好な関係にあったためだとする文献もある。ニキータ・ロマーノヴィチはその死に際して、子供たちをボリース・ゴドゥノーフに託したらしい。
没年ははっきりしない。早い説で1585年。これはこの年以降政治の表舞台に出なくなったためだが、一般的には翌1586年が没年だとされている。
ロマーノフ家代々の墓所ノヴォスパースキー修道院に葬られている。
なお、子らについてもさまざまな情報が入り乱れてはっきりしない。