ナターリヤ・キリーロヴナ・ナルィシュキナ
Наталья Кирилловна Нарышкина
ツァリーツァ царица (1671-)
生:1651.08.22/09.01−リャザニ県
没:1694.01.25/02.04(享年42)−モスクワ
父:キリール・ポリエフクトヴィチ・ナルィシュキン 1623-91
母:アンナ・リヴォーヴナ・レオンティエヴァ
結婚:1671−モスクワ
& ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ 1629-76
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクセイ・ミハイロヴィチと | |||||||
1 | ピョートル(皇帝1世) | 1672-1725 | 1689 | エヴドキーヤ | 1669-1731 | イラリオーン・アヴラアーモヴィチ・ロプヒーン | モスクワのボヤーリン |
1712 | エカテリーナ | 1684-1727 | サムエル・スカヴロンスキ | リヴォニア農民 | |||
2 | ナターリヤ | 1673-1716 | − | ||||
3 | フェオドーラ | 1674-77 | − |
リャザニの小貴族。正教徒。
ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの2番目の妃。
父は軍務についていたようで、幼い頃に母を失くしたナターリヤ・ナルィシュキナを、モスクワの知人アルタモーン・マトヴェーエフに預けた。マトヴェーエフはスコットランド系の(と思われる)女性と結婚しており(マリーヤ・ガミリトン参照)、住居も生活スタイルも西欧風を取り入れていた。ここで育てられたナターリヤ・ナルィシュキナも、高い教養を身につけた西欧風の女性に育った。
たまたまマトヴェーエフ邸を訪問したアレクセイ・ミハイロヴィチに見初められ、形式的な花嫁コンテストを経てその妃となる。
ナターリヤ・ナルィシュキナが妃となると、庇護者であったアルタモーン・マトヴェーエフが政権を指導するようになる。
それまでテレムノーイ宮殿に «隔離されていた» ロマーノフ家の女性たちと違い、ツァリーツァ・ナターリヤ・ナルィシュキナはアレクセイ・ミハイロヴィチのつくった劇場(ロシアにはまだクレムリンにしか劇場はなかった)で観劇をしたり、鷹狩(アレクセイ・ミハイロヴィチが好きだった)に同行したりと、かなり活動的だった。ただしこのような行為は当時のロシアでは慣習上も正教会の教えの上からも忌避されていた。
1676年、アレクセイ・ミハイロヴィチが死去。即位したフョードル3世は前妃との子であり、その実家ミロスラーフスキー一族が力を盛り返してきてアルタモーン・マトヴェーエフは失脚。ナターリヤ・ナルィシュキナも息子ピョートル・アレクセーエヴィチと共に、しばしばモスクワ近郊のコローメンスコエ村やプレオブラジェンスコエ村で過ごした。
もっとも、フョードル3世個人は特段ナターリヤ・ナルィシュキナをはじめとするナルィシュキン一族を敵視したわけではなかったとも言われる(逆に好意的だったとの証言もある)。しかし病弱で実権を親族や側近に握られていたフョードル3世個人が同情的であったとしても、ナターリヤ・ナルィシュキナを巡る環境はあまり影響を受けなかっただろう。
1682年、フョードル3世が死ぬと、ナターリヤ・ナルィシュキナの息子ピョートル・アレクセーエヴィチがツァーリに選ばれる。ナターリヤ・ナルィシュキナは母后として摂政となり、アルタモーン・マトヴェーエフが追放先から呼び戻された。
しかしその直後、銃兵の叛乱が勃発。マトヴェーエフや弟たちは殺され、父キリール・ナルィシュキンは修道院に入れられた。この叛乱に乗じて(むしろ叛乱を煽動したとも言われる)ミロスラーフスキー一族が巻き返し、ミロスラーフスキー一族の血を引くイヴァン5世がピョートル1世と共同のツァーリとされた。しかも幼いふたりの摂政になったのは、ナターリヤ・ナルィシュキナにとっては継子であるツァレーヴナ・ソフィヤ・アレクセーエヴナだった。
ナルィシュキン一族を敵視したソフィヤ・アレクセーエヴナの摂政時代(1682-89)、ナターリヤ・ナルィシュキナは再びプレオブラジェンスコエ村に逼塞することを余儀なくされた。
ある意味、ナターリヤ・ナルィシュキナの希望は息子ピョートル1世にあったが、そのピョートル1世は近隣のガキどもをつかまえて戦争ごっこに興じるばかりで、勉強(ナターリヤ・ナルィシュキナの目から見て «勉強» に値するもの)もろくにしようとせず、ツァーリとしての務めも放擲しがちだった(そもそもソフィヤ・アレクセーエヴナがまともな役割を与えなかったのだが)。
特に近隣のドイツ人居留地でピョートル1世が «ドイツ人» とつきあい、しかもどんちゃん騒ぎを繰り返したりしていることに危惧を覚えたナターリヤ・ナルィシュキナは、1689年、ピョートル1世を、適当にみつくろってきたエヴドキーヤ・ロプヒナーと無理やり結婚させる。
「結婚すれば落ち着くだろう」というのは洋の東西を問わず親の考えることで、しかもその意図したとおりになることは滅多にない。ピョートル1世も、いかにも伝統的なロシア女性であるエヴドキーヤ・ロプヒナーが気に入らず、相変わらず戦争ごっこやどんちゃん騒ぎを繰り返していた。
しかしこの結婚は、まったく別のところに波紋を投げかけた。
当時、正式にはロシアの最高権力者はツァーリであり、そのツァーリとはイヴァン5世とピョートル1世であった。実権を握っていたツァレーヴナ・ソフィヤ・アレクセーエヴナは、あくまでも «摂政» であり、ふたりのツァーリのいずれかが(現実的にはピョートル1世が)成人に達するか統治能力ありと見なされるまで «一時的に» 権力を預かっていたにすぎない。
そのピョートル1世が結婚したということは、ソフィヤ・アレクセーエヴナにとっては大きな衝撃だった。結婚したということは成人に達したということとほぼ同義であり(当時は法的に成人年齢など決められていなかった)、ソフィヤ・アレクセーエヴナは権力を明け渡さなければならなくなるからである。一説には、ナターリヤ・ナルィシュキナはまさにこれを狙ったのだとも言われる。
こうして先制攻撃をしかけようと軍を動員したソフィヤ・アレクセーエヴナだったが、如何せん正統性はなく、しかも最近のクリミア遠征に失敗して人心も離れていたため、逆に軍も貴族もピョートル1世の側に立った。
自ら墓穴を掘った形でソフィヤ・アレクセーエヴナが失権。ピョートル1世が権力を掌握した。
唯一の最高権力者となったピョートル1世だったが(イヴァン5世もいたが、相変わらず名目的な存在にすぎなかった)、依然として政務に興味を示さず、実権はツァリーツァ・ナターリヤ・ナルィシュキナの弟レフ・ナルィシュキンに委ねられた。
いまやクレムリンの女主人となったナターリヤ・ナルィシュキナだったが、息子への影響力は絶大だったものの、彼女自身は政務そのものには口をはさまなかった(特段の見識もなかったのかも)。
それでも、たとえば1690年に総主教ヨアキームが死ぬと、ピョートル1世自身は外国事情に通じたプスコーフ司教マルケルを後任にしたいと考えたが、保守派の圧力を受けたナターリヤ・ナルィシュキナがそれを覆し、カザニ司教アドリアーンを総主教にしたりしている。
このように、ナターリヤ・ナルィシュキナ個人は、アルタモーン・マトヴェーエフに養育されたこともあって、一面では開明的、先進的な女性であったにもかかわらず、1689年から1694年の時機は政権が保守反動化した。
ヴォズネセンスキー修道院に葬られた。