ロマーノフ家人名録

ナターリヤ・アレクセーエヴナ (ヴィルヘルミーナ)

Wilhelmina Luisa, Наталья Алексеевна

ヘッセン=ダルムシュタット方伯女 Prinzessin von Hessen-Darmstadt
大公妃・ツェサレーヴナ великая княгиня, цесаревна (1773-)

生:1755.06.14/06.25−プレンツラウ(ドイツ)
没:1776.04.15/04.26(享年21)−サンクト・ペテルブルグ

父:ルートヴィヒ9世 1719-90 ヘッセン=ダルムシュタット方伯(1768-90)
母:カロリーネ・ヘンリエッテ 1721-74 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公クリスティアン3世)

結婚:1773−サンクト・ペテルブルグ
  & 皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801

愛人:アンドレイ・キリーロヴィチ公 1752-1836 (キリール・グリゴーリエヴィチ・ラズモーフスキー伯)

子:なし

ドイツの領邦君主ルートヴィヒ9世の第六子(四女)。ルター派。
 皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの最初の妃。ただしパーヴェル・ペトローヴィチが即位する前なので、ナターリヤ・アレクセーエヴナは皇妃にはならなかった。
 父よりも母の方が «大方伯妃 Große Landgräfin» として有名。姉フリデリーケ・ルイーゼ(1751-1805)はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744-97)の妃。

ヘッセンは、ごく大雑把に言って中世のテューリンゲン地方の西半分。こんにちのドイツのほぼど真ん中。北半分がヘッセン=カッセル方伯領、南半分がヘッセン=ダルムシュタット方伯領となっている。
 方伯 Landgraf とはドイツ独特の爵位で、一般の伯の領土よりも広い地域を管轄する伯に与えられたと考えられるが、その本来の役割や職掌などは不明。この時代にはヘッセン方伯のみが方伯の称号を有していた。

 かつてピョートル3世のお妃探しに際し、エカテリーナ2世はプロイセン王フリードリヒ2世大王(1712-86)の口利きで当時の女帝エリザヴェータ・ペトローヴナに紹介されたという経緯がある。あるいはそれが念頭にあったのか、1773年、皇太子パーヴェル・ペトローヴィチ大公のお妃を探していたエカテリーナ2世は、再びフリードリヒ大王に推薦を依頼。
 甥(跡継ぎ)フリードリヒ・ヴィルヘルムの妃の妹たちがまだ売れ残っていることを知っていたフリードリヒ大王は、これを機にロマーノフ家とホーエンツォレルン家を縁続きにしておこうという意図も働いたのだろう。売れ残りの妹たちを推薦。アマーリア(1754-1832)、ヴィルヘルミーナ、ルイーザ(1757-1830)の三姉妹を一まとめにして母親とともにサンクト・ペテルブルグに送り込んだ。
 パーヴェル・ペトローヴィチ大公はヴィルヘルミーナに目を留め、こうして正教に改宗してナターリヤ・アレクセーエヴナとなった彼女はパーヴェル・ペトローヴィチ大公と結婚した。
 ちなみに、結婚にあわせて父ルートヴィヒ9世はロシア元帥になっている。もちろん、ルートヴィヒ9世はロシア軍に勤務などしていない。
 さらにちなみに、振られた姉アマーリアの娘が皇帝アレクサンドル1世の妃エリザヴェータ・アレクセーエヴナ、妹ルイーザの息子がマリーヤ・パーヴロヴナ大公女の夫ザクセン=ヴァイマール大公カール・フリードリヒ。何だか手近なところで間に合わせている感じがしないでもない。

 ただし、結婚生活は失敗。
 確かにナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃は、陽気さと社交性で宮廷人から好意を寄せられており、パーヴェル・ペトローヴィチ大公もそれなりに気に入っていた。
 しかしナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃の方ではパーヴェル・ペトローヴィチ大公が気に入らず、権力を握り続ける義母ともそりが合わなかった(そもそもエカテリーナ2世が目をつけたのは姉のアマーリアの方だった)。
 これでパーヴェル・ペトローヴィチ大公夫婦が義母と別居でもしていれば良かったのだろうが、パーヴェル・ペトローヴィチ大公に自前の宮殿が与えられたのはのちの話。

 やがてナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃は夫を皇位につけようと画策するようになる。別に夫に権力を握らせることに目的があったのではなく、それにより自らが宮廷の頂点に立つことが目的だった。
 ちなみにナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃はロシア語を覚えようとはせず、フランス語で話した。もっとも当時のロシア宮廷ではフランス語だけでも十分用は済んだ(が、大黒屋光太夫によるとエカテリーナ2世はロシア語で話していたようだ。『北槎聞略』には «Бедняжка.»(可哀そうな人)と «Ох, жалко.»(まぁ、お気の毒)という彼女のセリフが記されている)。

 さらにナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃は、夫の親友であったアンドレイ・ラズモーフスキー伯と関係を持つようになったと言われる。もっともこの関係は公然の秘密で、知らぬは夫ばかりであったらしい。
 やがてナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃は妊娠するが、誰もが父親はパーヴェル・ペトローヴィチ大公ではなくアンドレイ・ラズモーフスキー伯だと考えていたようだ。エカテリーナ2世としては、とにかく世継ぎができればいいのであって、父親が誰かは問題ではなかった(パーヴェル・ペトローヴィチ大公自身エカテリーナ2世の愛人の子であるとも言われる)。
 しかしこれは難産となり、ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃は娘を死産した直後、自らも死去。
 アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されている。

アンドレイ・キリーロヴィチ・ラズモーフスキー伯(1752-1836)は、エリザヴェータ・ペトローヴナの愛人アレクセイ・グリゴーリエヴィチ伯の甥で、科学アカデミー総裁キリール・グリゴーリエヴィチ伯の子。若い頃からパーヴェル・ペトローヴィチ大公の親友で、その名代としてロシア入りするナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃を出迎えたのもかれだった。ちなみにすでにこの時からふたりのロマンスが始まっていたとも言われる。ナポリ(1777-84)、コペンハーゲン(1784-86)、ストックホルム(1786-88)、ヴィーン(1790-99, 1801-07)で外交官として活躍。ハイドンやベートーヴェンの友人としても知られている。『ラズモーフスキー四重奏曲』のラズモーフスキーである。公。

 愛する妃を失って嘆き悲しむパーヴェル・ペトローヴィチ大公に、ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃とアンドレイ・ラズモーフスキー伯との関係を教えてやったのはエカテリーナ2世であったと言われる(もっとも、パーヴェル・ペトローヴィチの治世になってアンドレイ・ラズモーフスキー伯が特段の復讐を受けたという事実はない)。

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