ロマーノフ家人名録

ナデージュダ・アレクサンドロヴナ・ドレイエル

Надежда Александровна Дрейер

生:1861
没:1929(享年?)−タシケント

父:アレクサンドル・グスターヴォヴィチ・ドレイエル
母:ソフィヤ・イヴァーノヴナ・オパノフスカヤ

結婚:1878−オレンブルグ
  & ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公 1850-1918 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ニコライ大公と(姓はイスカンデル)
1アルテーミー1881-1919
2アレクサンドル1889-1957オリガ1893-1962イオシフ・ロゴフスキーロシア人
ナターリヤ・ハヌィコヴァ1893-1982

素性不詳。正教徒。
 父はオレンブルグの警察署長ともコサック軍団の士官とも言われる。姓も、特にラテン文字圏では von Dreyer と表記されるのが一般的である(ロシア語でも時に фон Дрейер と表記される)。

 1877年、オレンブルグに国内流刑されていたニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公と出会う。ふたりはすぐに結婚。この時、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公はヴォルィンスキー中尉と名乗っていたらしい。
 しかし1878年、この結婚を知った宗務院が、結婚の無効を宣言。ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公もドレイエル一家もオレンブルグを追放された。
 ナデージュダ・ドレイエルはニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公と別れようとせず、新たな追放先についていっている。

 1881年、即位したばかりの皇帝アレクサンドル3世により、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公の追放先はタシケントと定められ、またナデージュダ・ドレイエルとの結婚も認められた。

 ナデージュダ・ドレイエルの生んだふたりの子はいずれもイスカンデルの姓を与えられたが、イスカンデルの姓が何に由来するか、いつ頃から誰が最初に使い始めたのか、はっきりしない。
 すでにナデージュダとの結婚前にニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が使っていたとも言われるし、結婚後ナデージュダにニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が与えたとも言われるし、ふたりの子供に最初に与えられたとも言われる(その場合、タシケント近郊の村にちなんだとされる)。
 ちなみにナデージュダの称号も、時には公妃 княгиня とされたり時には伯妃 графиня とされたり、しかし公的には何ら称号を持っていなかったはずで、はっきりしない。

 1895年頃、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公はダーリヤ・チャソヴィティナという若い女性を公然と愛人とする。ナデージュダは、これにも黙って耐えた。

 ナデージュダ・ドレイエルは何度もサンクト・ペテルブルグを訪れている。おそらくロマーノフ家とつながりを持ち、あわよくばニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公の恩赦とサンクト・ペテルブルグへの帰還を認めてもらおうとしたのだろう。これは実らなかったが、何らかの形でロマーノフ家とのつながりは確保できたらしい。
 1900年、ナデージュダ・ドレイエルは息子たちを連れてサンクト・ペテルブルグへ。皇帝ニコライ2世の許可を得て、ふたりの息子は陸軍幼年学校に入学した。ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公からの要請もあって、ナデージュダ・ドレイエルとふたりの息子にはニコライ2世により正式にイスカンデルの姓が認められた。

 1901年、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公はヴァレーリヤ・フメリニツカヤという、まだギムナージヤに通う学生と結婚したらしい。前年にはナデージュダと離婚していたとも言われる。はっきりしたことは不明だが、いずれにせよニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公の愛人との関連だろうと想像されるが、ナデージュダ・ドレイエルはタシケントには戻らず、そのままサンクト・ペテルブルグで息子たちと暮らした。
 しかしニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が病んでクリミアに療養に赴いた時には、ナデージュダもかけつけている。そこで孤児のための無料食堂を開くなどしつつ、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公を看護。その後再びタシケントへ。
 次男に子が生まれた時にはサンクト・ペテルブルグに赴いたが、それ以外はタシケントで夫とともに暮らす。

 革命後、1918年にニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が死去。ふたりの暮らした宮殿はボリシェヴィキーに接収されて美術館とされる。
 ナデージュダ・ドレイエルは当初、美術館の館長となったが、3年後には解任。
 すでに長男アルテーミーはチフスで死去(赤軍と戦って戦死したともされる)。次男アレクサンドルも白衛軍とともに国外に亡命しており、ナデージュダはひとりぼっちとなった。財産も仕事もなく、貧困状態に陥り、乞食同然となって(ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公の恩顧を覚えていた住人に食べ物を恵んでもらっていたらしい)、狂犬病で死んだ。

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