ミリツァ・ニコラーエヴナ(ミリツァ)
Милица Петровић, Милица Николаевна
モンテネグロ公女 кнегиња Црне Горе
大公妃 великая княгиня (1889-)
生:1866.07.14/07.26−ツェティニェ(モンテネグロ)
没:1951.09.05(享年85)−アレクサンドリア(エジプト)
父:ニコラ1世 1841-1921 モンテネグロ公(1860-1910)・王(1910-18)
母:ミレナ 1847-1923 (ペータル・ヴコヴィチ)
結婚:1889−ペテルゴーフ
& ピョートル・ニコラーエヴィチ大公 1864-1931 (ニコライ・ニコラーエヴィチ大公)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ピョートル・ニコラーエヴィチ大公と | |||||||
1 | マリーナ | 1892-1981 | 1927 | アレクサンドル公 | 1886-1974 | ニコライ・ドミートリエヴィチ・ゴリーツィン公 | ゲディミノヴィチ |
2 | ロマーン | 1896-1978 | 1921 | プラスコーヴィヤ | 1901-80 | ドミートリー・セルゲーエヴィチ・シェレメーテフ伯 | ロシア貴族 |
3 | ナデージュダ | 1898-1988 | 1917 | ニコライ公 | 1893-1961 | ヴラディーミル・ニコラーエヴィチ・オルローフ公 | ロシア貴族 |
4 | ソフィヤ | 1898 | − |
モンテネグロ公ニコラ1世の第二子(次女)。正教徒。
姉ゾルカ(1864-90)はのちのセルビア王ペータル1世(1844-1921)の妃、次妹スタナはニコライ・ニコラーエヴィチ大公の妃、末妹イェレナ(1872-1952)はイタリア王ヴィットーリョ・エマヌエーレ3世(1869-1947)の妃。
1878年、ベルリン会議で国際的に祖国モンテネグロの独立が承認される。
ミリツァは、妹スタナ、イェレナ、マリア(1869-85)とともに、サンクト・ペテルブルグのスモーリヌィー学院で学ぶ。さらに卒業後も姉妹は祖国に戻らず、サンクト・ペテルブルグにとどまった。
これはひとつには、ロシアの国際的後ろ盾を得たい父により、ロシア宮廷とのつながりとして «派遣» され、とどめ置かれた、という側面もあった。
1889年、スタナがロイヒテンベルク公と結婚したのと同じ年に、ミリツァもピョートル・ニコラーエヴィチ大公と結婚。
ピョートル・ニコラーエヴィチ大公が肺結核を患っていたため、しばしば長期間南ロシアやクリミアで過ごした。
1894年、アレクサンドラ・フョードロヴナが皇帝ニコライ2世と結婚。シャイで非社交的な皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナは宮廷で孤立しがちだったが、この時仲良くなったのがミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃とアナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃の姉妹(妹スタナはロシアではアナスタシーヤ・ニコラーエヴナと呼ばれた)。熱心な正教徒であり、しかも神秘主義的傾向が強いというところで波長が合ったのだろう。
しかしそれが宮廷人の嫉妬と反発を呼んだと見え、姉妹は批判を浴びる。個人的には、この批判には «大国ロシア» の宮廷人の傲慢(つまり小国モンテネグロに対する蔑視)が根底にあるように思える(姉妹は単に «черногорка(モンテネグロ女)» とだけ呼ばれた)。
神秘主義には若い頃から耽溺し、パリで出会ったフィリップという人物を皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナに紹介してもいる。この男は毒にも薬にもならない人物だった。
1905年、皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナにラスプーティンを紹介したのも彼女だった。
1907年、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナがロイヒテンベルク公と離婚し、義兄ニコライ・ニコラーエヴィチ «ムラートシー» 大公と再婚。以後、兄弟姉妹は緊密な付き合いを終生続けることになる。
この頃、ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃とアナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃の姉妹は、徐々に皇帝一家と疎遠になっていた。皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナにグリゴーリー・ラスプーティンを紹介したのは、ラスプーティンを通じて皇帝ニコライ2世に影響を及ぼしたいと考えたからだ、と邪推されることも多いが、アレクサンドラ・フョードロヴナの信任を得たラスプーティンがミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃から離れていったことも一因かもしれない。
しかし決定的だったのは、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃とニコライ・ニコラーエヴィチ大公との結婚だったろう。以後、ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃と皇帝一家とのつきあいは途絶えた。
革命後、家族とともにペトログラードを脱出。クリミアにある夫の所領デュリベルに赴く。1919年、国外脱出。
夫は1931年に、妹アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃は1935年に死去。ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃は息子ロマーン・ペトローヴィチ公と共に、妹イェレナのいるイタリアに移住。
第二次世界大戦末期は、イタリア王家の親族として、身を隠すなどの苦労もした。
1947年、イタリアで王制が廃止されると、妹夫婦と共にエジプトに亡命。
カンヌの大天使ミカエル教会(正教会)に埋葬されている。