ロマーノフ家人名録

マクシミリアン・ド・ボーアルネ

Maximilien Joseph Eugène Auguste Napoléon de Beauharnais, Максимилиан де Богарне

第3代ロイヒテンベルク公 Herzog von Leuchtenberg (1835-)

生:1817.09.20/10.02−ミュンヘン(バイエルン、ドイツ)
没:1852.10.20/11.01(享年35)−サンクト・ペテルブルグ

父:ウジェーヌ・ド・ボーアルネ 1781-1824 イタリア副王(1805-14)&初代ロイヒテンベルク公(1814-24)
母:アウグスタ 1788-1851 (バイエルン王マクシミリアン1世)

結婚:1839−サンクト・ペテルブルグ
  & マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女 1819-76 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
マリーヤ・ニコラーエヴナと
1アレクサンドラ1840-43
2マリー/マリーヤ1841-19141863ヴィルヘルム1829-97バーデン大公レーオポルト1世ドイツ諸侯
3ニコラ/ニコライ1843-901878ナデージュダ1840-91セルゲイ・ペトローヴィチ・アンネンコフロシア貴族
4ウジェニー/エヴゲーニヤ1845-19251868アレクサンダー1844-1932ピョートル・ゲオルギエヴィチ・オリデンブルクスキードイツ諸侯
5ウジェーヌ/エヴゲーニー1847-19011869ダーリヤ1845-70コンスタンティーン・フョードロヴィチ・オポチーニンロシア貴族
1878ジナイーダ1856-99ドミートリー・スコーベレフロシア貴族
6セルジュ/セルゲイ1849-77
7ジョルジュ/ゲオルギー1852-19121879テレーゼ1852-83ピョートル・ゲオルギエヴィチ・オリデンブルクスキードイツ諸侯
1889スタナ1868-1935モンテネグロ王ニコラ1世君主

バイエルン(ドイツ)貴族ウジェーヌ・ド・ボーアルネの第七子(次男)。カトリック。
 長姉ジョゼフィーヌ(1807-76)はスウェーデン王オスカル1世(1799-1859)の妃。別の姉アメリー(1812-73)はブラジル皇帝ペドロ1世(1798-1834)の後妻。

ボーアルネ家はフランス貴族。フランス革命で処刑されたアレクサンドル・ド・ボーアルネ(1760-94)の未亡人ジョゼフィーヌ・ド・ラ・パジュリー(1763-1814)は、ナポレオンと再婚。その子ウジェーヌはナポレオンの養子として、ローマ王誕生(1811)までは、その事実上の後継者。イタリア副王を務めていたが、ナポレオンの没落後は妻の縁を頼ってバイエルンへ。義父のバイエルン王マクシミリアン1世からロイヒテンベルク公の称号をもらう。

 兄の第2代ロイヒテンベルク公オーギュスト・シャルル(1810-35)は、一時はベルギー王の候補にも挙げられた。ポルトガル女王マリア2世(1819-53)と結婚したが、その年のうちに死去。
 マクシミリアンはその弟として、兄の死後ロイヒテンベルク公位を継いでバイエルン軍人となっていた。

 1837年、軍事演習のためサンクト・ペテルブルグを訪問。この時初めてマリーヤ・ニコラーエヴナ大公女と出会う。1838年、再度サンクト・ペテルブルグを訪問。

 しかしマクシミリアン・ド・ボーアルネとマリーヤ・ニコラーエヴナ大公女との結婚は、決してロマーノフ家として望ましいものではなかった。マクシミリアンがナポレオンにつらなる一族であること、カトリックであること、君主の家系ではないこと、などが理由として挙げられる。
 しかし最終的にはニコライ1世も折れて、マクシミリアンとマリーヤ・ニコラーエヴナ大公女は結婚した。ただし、ふたりがサンクト・ペテルブルグに居を構えたのがニコライ1世の要望なのかマリーヤ・ニコラーエヴナ大公女の希望なのかについては、両説あってはっきりしない(ふたりとも望んでいたのかもしれない)。
 マクシミリアンはカトリックにとどまったが、マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女も正教徒のままで、ふたりの子供たちは正教徒として育てられた。
 ふたりの住居は1844年に完成したマリインスキー宮殿。

 マクシミリアン・ド・ボーアルネとマリーヤ・ニコラーエヴナ大公女はともに芸術に関心が深く、マクシミリアンは芸術アカデミー総裁に任じられている(1843-52)。1851年には所有する膨大な絵画の展覧会を開催している。
 マクシミリアンは同時に自然科学にも造詣が深く、科学者としても著名だった。冬宮内に自前の研究所をつくり、電気、特に電鋳法の研究に従事。鉱山研究所所長(1844-52)。

 1845年、バイエルンの所領を売却し、タンボーフ県に所領を購入。ロイヒテンベルク公家の当主であったとはいえ、領邦君主でもなし、国際的には小国であるバイエルンの軍人でいるよりは、ロシア皇室の縁戚としてロシアに骨を埋める気になったのだろう。
 最終的にはロシア陸軍少将。

 ローマ・カトリックであった関係から、サンクト・ペテルブルグ市内にある聖ヨハネ騎士団の修道院に埋葬された。

 1852年、かれの死に際して子供たちにニコライ1世からロマーノフスキー Романовский の姓と公の称号が与えられ、皇室のメンバーとして認められた。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロマーノフ家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system