マティリダ・クシェシンスカヤ (マティルダ・クシェシニスカ)
Matylda Krzesińska, Матильда Феликсовна Кшесинская, Мария Федоровна
ロマーノフスカヤ=クラーシンスカヤ公妃 светлейшая княгиня Романовская-Красинская (1935-)
生:1872.08.19/08.31−リゴヴォ(サンクト・ペテルブルグ近郊)
没:1971.12.06(享年99)−パリ(フランス)
父:アダム・フェリクス・クシェシニスキ
母:ユリア・ドミンスカ
愛人①:皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチ 1868-1918 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ)
愛人②:セルゲイ・ミハイロヴィチ大公 1869-1918 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公)
結婚①:1921−カンヌ
& アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公 1879-1956 (ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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セルゲイ大公と? アンドレイ大公と? | |||||||
1 | ヴラディーミル・クラーシンスキー | 1902-74 | − |
ポーランド貴族。カトリック。
祖父ヤン・フェリクスはバイオリニスト、父アダム・フェリクスはバレエ・ダンサー、母ユリアは女優。兄ヨゼフもマリインスキー劇場のバレエ・ダンサーだった。
マティルダも兄同様ペテルブルグ皇室バレエ学校に通い、エンリコ・チェッケッティ(1850-1928)に学ぶ。
1890年、卒業公演には皇室のメンバーも大勢招かれていたが(ロシア・バレエ最大のパトロンは皇室だった)、その後のディナーの席でマティルダは皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公(のちの皇帝)と初めて出会う。
卒業後兄と同様マリインスキー劇場で踊るようになったマティルダは、しばらくしてプリマの座を射止める。バレリーナとしては必ずしも独創的でも革新的でもなかったようだが、高く評価されたようだ。マリウス・プティパ(1818-1910)もしばしば彼女にメインロールを割り振っているし、1892年に『眠れる森の美女』を踊った時にはピョートル・チャイコフスキーにも激賞されたらしい。
ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公とはすでに1890年中には愛人関係となっており、市内に家を買ってもらっている。
ふたりの関係は、1894年にニコライ・アレクサンドロヴィチ大公が皇帝となり、アレクサンドラ・フョードロヴナと結婚するまで続いた。
ニコライ2世は関係を終えるにあたり、マティルダの世話をセルゲイ・ミハイロヴィチ大公に委ねる。以後、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公がパトロン・愛人としてマティルダを庇護。サンクト・ペテルブルグ市内に豪華な家を構えた。
その後アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公とも関係を持つようになり、この三角関係はスキャンダルとなった。
1902年に生まれた息子ヴラディーミルは、マティルダによればアンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公の子である。ただし、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公が自分の子であると主張していたこともあって、マティルダの言葉に疑念を呈する向きも多い。
バレリーナとしてはともかく、人間としては毀誉褒貶が激しい。タマーラ・カルサーヴィナ(1885-1978)などはマティルダの好意を得たようだが、アンナ・パーヴロヴァ(1881-1931)は逆に嫉視されたという。マティルダをしばしば起用したプティパも日記の中では彼女を罵倒してもいる。
特にアンナ・パーヴロヴァ等の台頭で1900年代にはその地位を脅かされ、マティルダはマリインスキーの専属をやめて各地に客演するようになった。
1909年以降は、セルゲイ・デャーギレフ(1872-1929)の «バレエ・リュッス» にも参加した。
あえて «より» 原音に近い表記をしたが、セルゲイ・デャーギレフとは、通常日本では «ディアギレフ» と表記されている人物である。なお、«バレエ・リュッス Ballets Russes» とはフランス語で、ロシア語では «ルースキエ・セゾーヌィ Русские сезоны» などと呼ばれている(決まった言い方は存在しない)。
二月革命後、マティルダはセルゲイ・ミハイロヴィチ大公を棄ててアンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公とともに北カフカーズに逃亡した。
その後、ペトログラードの彼女の家はボリシェヴィキーに接収され、そのバルコニーからレーニンも演説している。
1920年、クリミアから国外脱出し、南仏に居住。1925年、正教に改宗し、マリーヤ・フョードロヴナの洗礼名・父称をもらう。
1929年、パリにバレエ・スタジオを開く。マーゴ・フォンテーン(1919-91)もここで学んだことがある。
1935年、皇帝を称する義兄キリール・ヴラディーミロヴィチ大公により、ロマーノフスカヤ=クラーシンスカヤ公妃の称号を与えられる。
1960年、回想録『Souvenirs de la Kschessinska(クシェシンスカの思い出)』を出版。
パリ郊外のサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ墓地にアンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公とともに埋葬されている。
ちなみに、兄ヨゼフ(ロシア語でイオシフ)は、亡命せずソ連に残留。1942年、レニングラード攻囲戦の最中に死去。