マリーヤ・パーヴロヴナ (マリー)
Marie Alexandrine Elisabeth Eleonore, Мария Павловна
メクレンブルク=シュヴェリーン大公女 Prinzessin von Mecklenburg-Schwerin
大公妃 великая княгиня (1874-)
生:1854.05.02/05.14−ルートヴィヒスルスト(メクレンブルク、ドイツ)
没:1920.09.06(享年66)−コントルクセヴィル(フランス)
父:フリードリヒ・フランツ2世 1823-83 メクレンブルク=シュヴェリーン大公(1842-83)
母:アウグステ 1822-62 (ロイス=シュライツ=ケストリツ侯ハインリヒ63世)
婚約:1871
& ゲオルク・アルベルト 1838-90 (シュヴァルツブルク=ルドルシュタット侯)
結婚:1874−サンクト・ペテルブルグ
& ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 1847-1909 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ヴラディーミル大公と | |||||||
1 | アレクサンドル | 1875-77 | − | ||||
2 | キリール | 1876-1938 | 1905 | ヴィクトリヤ・フョードロヴナ | 1876-1936 | エディンバラ公アルフレッド & マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女 | イギリス王族 |
3 | ボリース | 1877-1943 | 1919 | ジナイーダ | 1898-1963 | セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ラシェフスキー将軍 | ロシア人 |
4 | アンドレイ | 1879-1956 | 1921 | マティルダ | 1872-1971 | フェリクス・クシェシニスキ | ポーランド人 |
5 | エレーナ | 1882-1957 | 1902 | ニコラオス | 1872-1938 | ギリシャ王ゲオルギオス1世 & オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女 | 君主 |
北ドイツの領邦君主フリードリヒ・フランツ2世の第三子(長女)。ルター派。
家族からは «ミーヒェン Miechen» と呼ばれた。
1862年に母を亡くす。その後父は1864年にヘッセン大公家のアンナと、続いて1868年にはシュヴァルツブルク=ルドルシュタット侯家のマリーと再婚。
ふたりめの義母の縁で、ミーヒェンは1871年にその従兄弟であるシュヴァルツブルク=ルドルシュタット侯ゲオルク・アルベルトと婚約。ゲオルク・アルベルトはドイツの領邦君主であり王朝結婚であったが、むしろミーヒェンが自発的に進めた縁談だった。
ところがわずか数週間後にミーヒェンは婚約を破棄。ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公と出会ってこちらに乗り換えたのである。ちなみにゲオルク・アルベルトはその後生涯独身で、その死後はミーヒェンの義母マリーの弟が後を継いだ。
しかしヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公との結婚は順調には行かなかった。ミーヒェンが正教への改宗を拒み続けたのが最大の理由である。これまでロマーノフ家の花嫁が正教に改宗しなかったのは150年前のソフィヤ・シャルロッタのみ。それ以来、ロマーノフ家の人間となるには正教に改宗するのが事実上条件となっていたからだ。
最終的には皇帝アレクサンドル2世が折れて、ルター派信仰を保持したままヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公と結婚することを認めた。ただし父称がフリードリホヴナとかフランツェヴナではいかにも座りが悪いので、皇帝パーヴェルの子孫であることにちなんで、パーヴロヴナの父称が与えられ、ミーヒェンはマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃となった。
結婚後は、サンクト・ペテルブルグ市内のヴラディーミルスキー宮殿に住む。
皇帝アレクサンドル3世の皇后マリーヤ・フョードロヴナと激しく対立。
ひとつには、夫ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公もマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃も野心家で、皇位を狙っていたというのがある。1888年、アレクサンドル3世一家の乗った列車がボルキで脱線事故を起こした際には、マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃は「こんなチャンスは二度となかったのに!」と叫んだと言われる。この時アレクサンドル3世も、命拾いをした直後に「ミーヒェンはさぞ残念がるだろうな」と言ったらしいから、お互い様というものだ。
また、ふたりのマリーヤの対立にはその性格もあったろう。元来ふたりとも派手好きで社交好きであり、マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃は皇妃マリーヤ・フョードロヴナに対抗してヴラディーミルスキー宮殿に多くの名士を招き、ペテルブルグ社交界の一方の中心とした。
同時に反独派のアレクサンドル3世・マリーヤ・フョードロヴナ夫婦に対抗して、親独派の中心として政治的な画策もおこなった。
マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃は精力的で行動力があり、クリスマス・バザーを企画して多額の金を集めたり、第一次世界大戦では医療列車を仕立てたりと、慈善活動にも積極的だった。
ニコライ2世の皇后アレクサンドラ・フョードロヴナがロシアに来た当初は彼女と親しくしていたようだが、やがてこれまた対立するようになる。社交界の中心でなければ気が済まず、他人を支配しようとするマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃の気に入るのは、地位が下か自己主張がない人間だけだったはずだ。
1905年、長男キリール・ヴラディーミロヴィチ大公の結婚をニコライ2世が認めなかったことをきっかけに、ニコライ2世(と言うより皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ)との対立が激化。特に帝政最後の10年間は、マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃は反アレクサンドラ派の急先鋒となった。アレクサンドラ・フョードロヴナがラスプーティンの問題で人心から離反すればするほどマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃の株は上昇した。
1908年、正教に改宗。
おそらく、皇太子アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公の血友病、皇弟ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の貴賎結婚(正式に結婚したのは1911年だが、1908年頃から付き合い始めていた)などで夫ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公、息子キリール・ヴラディーミロヴィチ大公の皇位継承の可能性が高まったことから、障害を減らしておこうと考えたのではないだろうか(ロシア国民が異教徒の皇太后や皇后を容認したとは思えない)。嫁ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃も1907年に改宗していたことだし。
1909年、死んだ夫の後を継いで芸術アカデミー総裁に就任(1909-17)。
第一次世界大戦が勃発すると、ヴラディーミルスキー宮殿は反皇帝(皇后)派の巣窟のようになった。
1916年から17年にかけて、ニコライ2世を廃位してキリール・ヴラディーミロヴィチ大公を皇帝にしようと画策。ドゥーマ議長ミハイール・ロヂャンコに「皇后を消さなくちゃ」と言ったとか。
二月革命後は、1917年夏にキスロヴォーツクで療養していた三男アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公のもとに逃亡。その後次男ボリース・ヴラディーミロヴィチ大公も合流した(長男キリール・ヴラディーミロヴィチ大公はフィンランドに亡命)。
1918年夏の逃亡劇を経て、黒海沿岸のアナパにたどり着く。しかし相次いでロマーノフ一族が海路国外に脱出していくのを尻目に、マリーヤ大公妃はあくまでもキリール・ヴラディーミロヴィチ大公を皇帝にするために、ロシアにとどまり続ける(アナパからキスロヴォーツクへ、次いでノヴォロシースクへ)。
1920年、最後の白衛軍とともにイタリア船に乗り、アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公、その愛人マティルダ・クシェシニスカ、その子ヴラディーミルとともにヴェネツィアへ逃亡。そこからスイスを経由してフランスへ。フランスに落ち着いた直後に死んだ。
野心家で、また辛辣でもあって特にロマーノフ家内の若者たちからは畏怖されていたが、同時に傲慢さと表裏一体の誇り高さ、貴族らしさ(良くも悪くも)などを備えていた。