ロマーノフ家人名録

マリーヤ・パーヴロヴナ

Мария Павловна, Maria Pawlowna

大公女 великая княжна
ザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ大公妃 Großherzogin von Sachsen-Weimar und Eisenach (1828-53)

生:1786.02.04/02.15−パーヴロフスク
没:1859.06.11/06.23(享年73)−ベルヴェデーレ(ヴァイマール近郊、ドイツ)

父:皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1759-1828 (ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世・オイゲン)

結婚:1804−サンクト・ペテルブルグ
  & カール・フリードリヒ 1783-1853 ザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ大公(1828-53)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
カール・フリードリヒと
1カール1805-06
2マリーア1808-771827カール1801-83プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世ドイツ諸侯
3アウグスタ1811-901829ヴィルヘルム1世1797-1888プロイセン王(1861-88)・ドイツ皇帝(1871-88)ドイツ諸侯
4カール・アレクサンダー (大公)1818-19011842ソフィア1824-97オランダ王ウィレム2世 & アンナ・パーヴロヴナ大公女君主

皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの第五子(三女)。
 皇帝アレクサンドル1世・パーヴロヴィチの妹で、ニコライ1世・パーヴロヴィチの姉。

 兄ふたり、アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は祖母エカテリーナ2世の手元で育てられたが、マリーヤ・パーヴロヴナ大公女ら妹弟たちは両親のもとで育つ。

 幼少時に天然痘にかかる(1768年にエカテリーナ2世がロシアで初めて天然痘のワクチンを接種したが、マリーヤ・パーヴロヴナ大公女の発病はワクチン接種のせいだとも言われる)。痕が残ったが、成長とともにほとんど消え去ったらしい。

 幼い頃から活発で、エカテリーナ2世に言わせると「男の子に生まれるべきだった」そうだ。

 1801年、父とザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ公カール・アウグストとの間で、マリーヤ・パーヴロヴナ大公女とカール・フリードリヒの結婚が決められた。しかしその直後にクーデタで父が死去。慌てたザクセン=ヴァイマール公国政府はサンクト・ペテルブルグに使節を派遣し後を継いだアレクサンドル1世と交渉。結局当初の予定通りに1804年、マリーヤ・パーヴロヴナ大公女はカール・フリードリヒと結婚した。

 結婚生活は必ずしも幸せなものではなかったらしい。もっとも、それもマリーヤ・パーヴロヴナ大公女がロシアを恋しがってばかりいたからのようだ。

 1806年、フランス軍から逃れるため、数ヶ月間にわたりシュレスヴィヒに逃亡。1813年にもヴィーンに逃れた。1814年からのヴィーン会議には、義父カール・アウグストや兄アレクサンドル1世とともに出席。

 マリーヤ・パーヴロヴナ大公女はもともと学術・芸術に関心が深かった。シラーに言わせると「絵画と音楽に大きな才能を持」っていたらしい。詩人のヴァシーリー・ジュコーフスキー(帝政ロシア国歌の作者でありアレクサンドル2世の養育係)とも生涯にわたり手紙をやり取りしている。
 加えてヴァイマールはゲーテを宰相に迎えたカール・アウグストの代に一躍ドイツの文化的中心都市となっていた。ナポレオン戦争を経てその地位にも翳りが見えていたが、マリーヤ・パーヴロヴナ大公女はフンボルトの講義も受講したり、ゲーテ、シラー、ヴィーラント等と交際したり、イェナ大学の教授をはじめとする学者たちを招いて «文学の夕べ» を主催したりと、積極的に学術・芸術活動を支援している。特に1830年に義母のルイーゼ・アウグステが死ぬと、ゲーテやシラー等ヴァイマールに住んだ芸術家たちを記念する博物館を開設したり、宮殿で公開講座を催したりと、学術・芸術のパトロンとしての活動を一層活発化させた。晩年にはフランツ・リストを招いている。

アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)はベルリン出身の自然地理学者。
 ヨハン・ヴォルフガンク・フォン・ゲーテ(1749-1832)はフランクフルト出身の詩人。1775年カール・アウグストにヴァイマールに招かれ、政務を担当。
 フリードリヒ・シラー(1759-1805)はヴュルテンベルク出身の詩人。1789年にイェナ大学教授。
 クリストフ・マルティン・ヴィーラント(1733-1813)は詩人。カール・アウグストに仕える。
 フランツ・リスト(1811-86)はハンガリー人ピアニスト。1848年からヴァイマールの宮廷楽長。

 1853年、夫の死で公的活動から身を引いた。

 ヴァイマールの夫の傍らに葬られた。ただし彼女自身の遺志によりロシアから土が運ばれ、正教の教会が建てられた。

 ちなみに、歴代ロマーノフの最高齢記録を更新(それまではタティヤーナ・ミハイロヴナの70歳)。ただし、ロマーノフ家の嫁も含めると、最高齢記録は義姉アンナ・フョードロヴナ大公妃の78歳(ただし離婚しているが)。

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