マリーヤ・ミハイロヴナ
Мария Михайловна
大公女 великая княжна
生:1825.03.09/03.21−モスクワ
没:1846.11.19/12.01(享年21)−ヴィーン(オーストリア)
父:ミハイール・パーヴロヴィチ大公 1798-1849 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ)
母:エレーナ・パーヴロヴナ大公妃 1807-73 (ヴュルテンベルク王子パウル)
結婚:なし
子:なし
ミハイール・パーヴロヴィチ大公の第一子(長女)。
皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチの姪。
養育はすべて母。父は息子が生まれたら軍人にしようと張り切っていたが、娘はどうしたらいいのかわからなかったに違いない。とはいえ、マリーヤ・ミハイロヴナ大公女は誕生と同時に騎兵師団長に任命されていたので、それを口実に軍事教練を施した。
すでにエカテリーナ1世、エリザヴェータ・ペトローヴナ、エカテリーナ2世と、近衛兵との関係が深かったが、おそらくパーヴェル・ペトローヴィチが軍隊マニアだったからだろうが、以後のロマーノフは全員、男性はもちろん女性も、いずれかの師団長に任じられている。ロマーノフ家に生まれた者は誕生と同時に、外から嫁入りした女性は結婚に際して。女性の場合は言うまでもなく形式的なものでしかないが、それでもパレードなどでは実際に師団の制服を着て指揮を執らねばならない。
バーデン大公の跡取り息子ルートヴィヒ(1824-58)との結婚が噂されたりもした。しかし結婚話が現実化することはなかった。
生来病弱だったらしいが、特に1845年頃からは体調を崩し、療養していた。しかし療養のために訪れたヴィーンで急死。急遽駆けつけた両親に看取られ、実際に父ミハイール・パーヴロヴィチ大公の腕の中で息を引き取った。
前年に結婚直後の次女エリザヴェータ・ミハイロヴナ大公女を亡くしていた両親にとっては、さらなる愛娘の死は大きな打撃となった。
遺骸はサンクト・ペテルブルグに運ばれ、ペトロパーヴロフスキー大聖堂に埋葬された。