ロマーノフ家人名録

マリーヤ・ダニーロヴナ・ガミリトン

Мария Даниловна Гамильтон

生:?
没:1719.03.14/03.25(享年?)−サンクト・ペテルブルグ

父:?
母:?

愛人:皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725

愛人:イヴァン・ミハイロヴィチ・オルローフ

結婚:なし

子:なし

素性不詳。スコットランド出身のハミルトン家の女性と言われるが、父親についても正確なところはわかっていない。正教徒?

よく «メアリ・ハミルトン» と英語読みされているが、彼女はロシア語を話したロシア貴族であり(生まれも育ちもロシアだと思われる)、英語読みするのは筋違いな気がする。王貞治を中国語読みするようなものではないだろうか。

ハミルトンはスコットランドのロウランド(低地地方)のクラン(氏族)。14世紀初頭にロバート・ブルースからラナークに領土をもらったアングロ=ノルマン貴族ウォルター・フィッツギルバートを祖とする。16世紀にはステュアート家と婚姻関係を結び、スコットランド最大の名家となる。まさにこの時期、一族のひとりトーマス・ハミルトンがイヴァン雷帝のモスクワにやって来た。しかし、ハミルトン(ロシア語ではガミリトン)を姓とする人物は、マリーヤ・ダニーロヴナのほかには、アルタモーン・マトヴェーエフの妻エヴドキーヤ・グリゴーリエヴナぐらいしか知られていないし、トーマス・ハミルトンとの関係もはっきりしない。
 ちなみに、これより少し前から存在の知られているホムトーフ家 Хомутовы は、トーマス・ハミルトンの子孫だと言われている。ハミルトン(ガミリトン)という、ロシア語としては異質な姓を、音が似ていてロシア語としてわかりやすいホムトーフに替えたのだとされる(ロシア語でホムート хомут とは «馬の首輪»)。

 1713年に宮廷にデビューしたらしいが、すぐにピョートル大帝の愛人になった。皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナの女官。

 しかし愛人とは言っても、ピョートル大帝が愛情を抱いたのはおそらくアンナ・モンスエカテリーナ・アレクセーエヴナだけだったと思われる。それ以外の «愛人» たちとは、基本的には肉体的な関係を結んだだけである。当然、飽きがくればピョートル大帝も別の女性に食指が移る。
 マリーヤ・ガミリトンの方も別にピョートル大帝を愛したわけでもなさそうで、1714年頃にはピョートル大帝の従卒イヴァン・オルローフと関係を持つようになった。

 マリーヤ・ガミリトンは3度妊娠している。2度までは中絶をし、1717年に生まれた赤子は溺死させた。父親がどちらだったのかははっきりしないが、1717年までに3度妊娠したことを考えれば、少なくとも最初の子供はピョートル大帝の子だったのではないだろうか。
 1717年暮れ、子殺しが発覚(発覚のきっかけ、経緯については諸説芬々)。しかもエカテリーナ・アレクセーエヴナの貴金属や衣服を着服していたことも明らかとなった。マリーヤ・ガミリトンとイヴァン・オルローフはペトロパーヴロフスカヤ要塞に入れられ、拷問を受けた。
 ちなみにツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの事件と同時進行だったので、こちらの事件の審理にはピョートル大帝もあまり口をはさむ余裕がなかったらしい。おそらくそのためもあったのだろう。最終的な判決が出たのは1719年になってから。マリーヤ・ガミリトンは火刑に処された(会議法典では子殺しに対する刑罰は生き埋めとされていたから、むしろ温情ある判決であったと言える。ちなみに火刑は焼き殺すのではなく窒息死させる)。
 ちなみにイヴァン・オルローフは無罪釈放。

なお、スコットランドには『メアリ・ハミルトン Mary Hamilton』、あるいは『4人のメアリ The Fower Maries』と呼ばれるバラードがある。一応16世紀のスコットランドを舞台としているようだが、王妃付きの女官で、王の子を宿し、赤子を溺死させて処刑されるヒロイン、メアリ・ハミルトンには、マリーヤ・ガミリトンの生涯が反映されているようである。

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