マリーヤ・フョードロヴナ (ダグマール)
Marie Sophie Frederikke Dagmar, Мария Федоровна
デンマーク王女 prinsesse af Danmark
大公妃・ツェサレーヴナ великая княгиня, цесаревна (1866-81)
ロシア皇妃・ポーランド王妃・フィンランド大公妃 императрица Всероссийская, царица Польская, великая княгиня Финляндская (1881-)
生:1847.11.14/11.26−コペンハーゲン(デンマーク)
没:1928.10.13(享年80)−Hvidøre(デンマーク)
父:クリスティアン9世 1818-1906 デンマーク王(1863-1906)
母:ルイーゼ 1817-98 (ヘッセン=ルンペンハイム方伯ヴィルヘルム)
婚約:1864
& ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公 1843-65 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ)
結婚:1866−サンクト・ペテルブルグ
& 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ 1845-94
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクサンドル3世と | |||||||
1 | ニコライ(皇帝2世) | 1868-1918 | 1894 | アレクサンドラ・フョードロヴナ | 1872-1918 | ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ4世 | ドイツ諸侯 |
2 | アレクサンドル | 1869-70 | − | ||||
3 | ゲオルギー | 1871-99 | − | ||||
4 | クセーニヤ | 1875-1960 | 1894 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 | 1866-1933 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 | ロマーノフ家 |
5 | ミハイール | 1878-1918 | 1912 | ナターリヤ | 1880-1952 | セルゲイ・シェレメーティエフスキー | ロシア人 |
6 | オリガ | 1882-1960 | 1901 | ペーター | 1868-1924 | オルデンブルク大公家の分家 | ドイツ諸侯 |
1916 | ニコライ | 1881-1958 | アレクサンドル・クリコーフスキー | ロシア人 |
デンマーク王クリスティアン9世の第四子(次女)。ルター派。
母方の叔父はアレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女の夫フリードリヒ・ヴィルヘルム。
兄はのちのデンマーク王フレデリク8世(1843-1912)とギリシャ王ゲオルギオス1世、姉はイギリス王妃アレクサンドラ(1844-1925)。甥はデンマーク王クリスティアン10世(1870-1947)、ノルウェー王ホーコン7世(1872-1957)、ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)、イギリス王ジョージ5世(1865-1936)。
ちなみにダグマールという不思議な名前は、元来は古代スラヴの男性名ドラゴミール(драго- 大事+мир 平和)だと言われる。ボヘミア王プシェミスル・オタカル1世の娘マルケータ・プシェミスロヴナ(1186?-1213)がデンマーク王ヴァルデマール2世の妃となり、この時音が似ていてデンマーク語として通りのいいダグマールと翻案されたらしい(dag 日+mar 娘)。
家族からは «ミニー Minnie» と呼ばれた。
ミニー誕生の翌年に即位したデンマーク王フレデリク7世(1808-63)は父の遠い親戚。当時父クリスティアンはドイツ・デンマークにまたがるシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公家の四男坊であった。
ところがフレデリク7世には子がなく、しかもふたりの妃を離縁して身分違いの女性と暮らしていた。このため400年間続いてきたオレンボー王家が断絶するのは確実となっていた。
当時デンマークが抱えていたもうひとつの問題が、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの帰属であった。
シュレスヴィヒ公領もホルシュタイン公領もオレンボー王家の世襲領土であり、事実上デンマークの一部となっていた。しかし法的にはホルシュタインはドイツの一部であった。デンマークは女系の継承を認めていたが、ドイツでは認められていなかった。このためオレンボー王家が断絶すれば、ホルシュタインはデンマークと分離することが確実な状況であった。シュレスヴィヒではホルシュタインとの一体感が強く、しかも継承法は必ずしも明確になっていなかった。デンマークでは、ホルシュタインは手放してもシュレスヴィヒは確保し、デンマークに統合してしまおうという意見が強かった。
1848年、第一次スリースウィー(シュレスヴィヒ)戦争が勃発。デンマーク軍はシュレスヴィヒを占領するが、ドイツの盟主を任じるプロイセンが参戦してユラン半島(ユトランド)に侵攻。スウェーデンやロシア(ニコライ1世はデンマークを支持)の介入もあって1850年に講和が成り、シュレスヴィヒとホルシュタインはデンマーク領にとどまることとなった。
1852年、ロンドン条約により、列強はミニーの父クリスティアンをフレデリク7世の王位継承者とした。ちなみになぜ列強がクリスティアンを選んだのかは知らない。
1863年は、ミニーの一家にとって大きな変化のあった年であった。まず姉アレクサンドラがイギリス王太子アルバート(1841-1910)と結婚。続いて次兄ヴィルヘルムが列強によりギリシャ王に選ばれる(ギリシャ王としてはゲオルギオス1世)。そして最後にフレデリク7世が死に、父がデンマーク王として即位した。
しかしここでシュレスヴィヒとホルシュタインの継承権問題が再燃。ドイツ諸邦の軍がホルシュタインに侵攻し、第二次スリースウィー戦争が勃発する。1864年、ヴィーン条約によりホルシュタインのみならずシュレスヴィヒも失われた(一旦はプロイセンとオーストリアの共同管理下に置かれ、普墺戦争の結果プロイセン領に)。
まさにデンマークが敗戦の悲しみに打ち沈んでいる時に、ミニーがロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公と婚約した。
ところがその直後にニコライ・アレクサンドロヴィチ大公が発病。半年後には帰らぬ人となった。
敗戦下にあったデンマークとしては、ロシアとの結びつきを失いたくない。両王家間の交渉の結果、ミニーはニコライ・アレクサンドロヴィチ大公に代わって皇太子となったその次弟アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公と結婚することになった。正式には1866年にアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公がミニーにプロポーズ。その年のうちにサンクト・ペテルブルグに赴いたミニーが正教に改宗し(マリーヤ・フョードロヴナの洗礼名と父称をもらった)、ふたりは結婚した。
ちなみに、コペンハーゲンを後にするミニーを見送った群衆の中にアンデルセンがいた。
新婚夫婦はサンクト・ペテルブルグ市内のアニーチコフ宮殿に居を構える。
マリーヤ・フョードロヴナは皇太子妃としても皇妃としても、政治にはほとんど口をはさまなかった(反独的言動はしばしばしたが)。代わりに、これまでの歴代皇妃同様慈善事業に積極的にかかわった。家庭的で家族と多くの時間を過ごした点でも歴代皇妃と同じ。ただし違いがあるとすれば、社交的だった点だろう。
エリザヴェータ・アレクセーエヴナ、アレクサンドラ・フョードロヴナ、マリーヤ・アレクサンドロヴナといずれもあまり社交界や宮廷を好まなかった歴代皇妃と違い(病気がちだったというのもあるが)、マリーヤ・フョードロヴナは健康で快活で活発で、同名の皇妃マリーヤ・フョードロヴナと同じく宮廷社交界の人気者となった。アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の方は社交嫌いだったが、なぜかふたりはうまくやっていた。社交を除けばふたりはかなり似た者夫婦で、ともに快活で遊び好きで、反独的感情も共有していた。おそらく歴代の皇帝皇妃としては最も仲の良い夫婦だったろう。
1881年、アレクサンドル2世が暗殺されアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公が皇帝となった時点でアレクサンドル2世の妃マリーヤ・アレクサンドロヴナはすでに亡く、これまた同名のマリーヤ・フョードロヴナと同様、マリーヤ・フョードロヴナは皇妃になると同時にファースト・レディとなった(先立つ3人の皇妃はいずれも皇妃になった時点で皇太后が存命だった)。
即位後の皇帝夫婦は、治安上の理由からアニーチコフ宮殿を棄ててサンクト・ペテルブルグ郊外のガッチナに居を移した。
1894年にアレクサンドル3世が死ぬと、マリーヤ・フョードロヴナは再びアニーチコフ宮殿に戻る(以後戦争までここに住む)。
母親としてはマリーヤ・フョードロヴナは過保護で、ニコライ2世をはじめとする子供たちが精神的に成長しきれない原因であったと言う意見もある。
1898年、母ルイーゼが死去。1899年、三男ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公が死去。1906年、父クリスティアン9世が死去。1910年、義兄エドワード7世が死去。姉アレクサンドラが未亡人となる。1912年、長兄フレデリク8世が死去。1913年、次兄ゲオルギオス1世が暗殺される。
1915年以降は南西戦線の司令部があるキエフに常駐。病院経営をはじめ慈善看護活動に従事した。
1917年、二月革命の勃発で、モギリョーフで息子ニコライと別れたあと、キエフに戻る。ウクライナの独立運動を避けてクリミアにあるアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の所領に移る。ここで長女クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女一家と生活した。十月革命を迎えたのもここ。
1918年、四男ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が、次いで長男ニコライ2世一家がボリシェヴィキーに殺される。しかしマリーヤ・フョードロヴナは、少なくとも人前では、死ぬまでその事実を受け入れなかった。
それもあってか、マリーヤ・フョードロヴナは当初亡命を拒否。しかし情勢が悪化した1919年、イギリスの手でクリミアを脱出。イギリスへ。しかしイギリスでは歓迎されず(立憲君主制の伝統を鼻にかけるイギリス人には専制君主制のロシアに対する反感が強く、甥ジョージ5世もあまり友好的ではなかった)、次いでデンマークへ。姉アレクサンドラと共同で購入していたコペンハーゲン近郊の Hvidøre を住まいとした。
マリーヤ・フョードロヴナは皇太后として膨大な貴金属類を持ち出したが、それらを売却することを拒否。ふたりの甥、デンマーク王クリスティアン10世とイギリス王ジョージ5世等の財政支援で生活した。そのためしばしばクリスティアン10世と衝突することもあったらしい。
もともとポピュラーであったマリーヤ・フョードロヴナは、最後の皇太后であったことから亡命ロシア人の尊敬を集めた。しかし元来政治には口出しせず、亡命ロシア人間の政治的な動きにもかかわりを持たなかった。ただしニコライ2世等の死を信じなかったため、キリール・ヴラディーミル大公の皇位継承の主張を承認しなかった。
1925年、仲の良かった姉アレクサンドラが死去。これが最終的な打撃となり、マリーヤ・フョードロヴナはその3年後に死去。デンマーク王族としてロスキルデの両親の隣に埋葬される。
2006年、その遺志に従いサンクト・ペテルブルグのペトロパーヴロフスキー大聖堂の夫の傍らに再埋葬された。
生前から人気があったことに加えて、革命でふたりの息子を殺されロシアを追われた悲劇性もあって、ロシアではいまでも人気が高い。加えて社交的であったことから、帝政時代の宮廷社交界のシンボル的見方もされている(最後の皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナはマイナス・イメージが強すぎる)。