ロマーノフ家人名録

マリーヤ・ドミートリエヴナ・カンテミール (マリア・カンテミール)

Maria Cantemir, Мария Дмитрьевна Кантемир

公女 княжна (1711-)

生:1700.04.29/05.10−ヤシ(ルーマニア)
没:1754・57.09.09/09.20(享年57?)−モスクワ

父:ディミトリエ・カンテミール 1673-1723 モルドヴァ公(1693, 1710-11)
母:カサンドラ 1676-1713 (ヴァラキア公シェルバン・カンタクジノ)

愛人:皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725

結婚:なし

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ピョートル大帝と
1

モルドヴァの貴族。正教徒。
 皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの最後の愛人。

モルドヴァはオスマン帝国がバルカン半島に覇権を確立した15世紀以来、事実上その属国となっていた。しかし17世紀後半以降、ハプスブルク家やポーランドが反撃に出て、歴代モルドヴァ公はこれらに接近してオスマン帝国からの自立を図るようになる。

 カンテミール家でモルドヴァ公となったのは祖父コンスタンティンが最初(1685-93)だが、かれが死んだ後はいったん父ディミトリエ・カンテミールがスルターンによってモルドヴァ公に任命された。しかし当時ディミトリエはイスタンブールで事実上人質生活を送っており、そのためモルドヴァではコンスタンティン・ドゥカと、伯父アンティオフ・カンテミールが激しく公位を巡って争う。

 マリア・カンテミールは幼少期を父とともにイスタンブールで送る。ここで父同様、ギリシャ語やラテン語、歴史や哲学など幅広い教育を受けた。

 1710年、露土戦争が勃発。当時モルドヴァには公がおらず、スルターンの «総督代理» が統治していた。しかしモルドヴァはオスマン帝国にとってロシアとの最前線にあたる。このため信頼できる人物をモルドヴァ公とする必要があった。この時選ばれたのが、父のディミトリエ・カンテミールであった。
 マリアは父や家族とともに、生まれ故郷ヤシへ。
 しかし父はもとよりモルドヴァの独立を願ってロシアに接近しており、ピョートル大帝と同盟。オスマン帝国軍と戦った。
 1711年、プルート河畔の戦いでオスマン・クリミア連合軍に敗れ、ディミトリエ・カンテミールは一家のみならず1,000人にも及ぶボヤール(貴族)を引き連れてロシアに亡命。はじめは左岸ウクライナに、のちにモスクワに居住。ディミトリエ・カンテミールは、君主ということで公の称号を認められ、左岸ウクライナに所領をもらった。

 1720年、一家はサンクト・ペテルブルグにお引っ越し。ここで父はトルベツコーイ公女アナスタシーヤ・イヴァーノヴナと再婚(ちなみにマリーヤ・カンテミール公女と同年齢)。マリーヤ・カンテミール公女もピョートル大帝の目に留まる。
 マリーヤ・カンテミール公女がピョートル大帝の愛人となったのは1721年。1722年にピョートル大帝がペルシャ遠征のためにアーストラハンにまで赴いた時には、皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナに加えてマリーヤ・カンテミール公女も同行した。
 ここでマリーヤ・カンテミール公女は出産をしたと言われている。しかし、流産だったのか、生まれた子供(一般的に男子だったとされる)がすぐ死んだのか、といった点については相矛盾する証言が残されている。

ちなみに、数いるピョートル大帝の愛人たちの中で、ピョートル大帝の子を妊娠したことがはっきりわかっているのは、エカテリーナ・アレクセーエヴナ(のちに結婚するが)のほかにはマリーヤ・カンテミール公女だけ。マリーヤ・ガミリトンは中絶をしているが、それがピョートル大帝の子であったか否かは不明。その他の愛人たちには、10年以上を共にしたアンナ・モンスも含めて、妊娠の話はない。

 1723年、父が死去。その遺産相続を巡り、継母や異母弟たちと裁判になる(これは1739年まで続いた)。

 1724年、皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナにからんだ事件が発生し、世間一般ではピョートル大帝エカテリーナ・アレクセーエヴナと離縁してマリーヤ・カンテミール公女と再婚するのではないかとの噂がまことしやかに囁かれた。しかし、ピョートル大帝にそのつもりがあったにせよ、その間もなくして1725年早々に死去。

 ピョートル大帝が死んだ直後、マリーヤ・カンテミール公女も病気になり、弟アンティオフ・カンテミール公を遺言執行人に任命するまでになった。
 その後回復するが、エカテリーナ1世時代には宮廷から追われる。ピョートル2世時代には、その姉ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女(まだローティーンの少女)に気に入られてモスクワに住んだ。
 1730年、アンナ・イヴァーノヴナの即位に際して、弟アンティオフ・カンテミール公がヴェルホーヴニキに反対してアンナ・イヴァーノヴナの専制権力を支持。これもあってか、マリーヤ・カンテミール公女はアンナ・イヴァーノヴナにより宮廷に呼び戻され、女官に任命された。もっとも、宮廷がサンクト・ペテルブルグに戻った後も、マリーヤ・カンテミール公女はモスクワに居残った。
 その後は、事実上宮廷から «引退» し、モスクワで静かな生活を送る(もちろん屋敷に貴族を招くことはあった)。

 多くの同母弟たちの中で、特にアンティオフ・ドミートリエヴィチ公(1708-44)と仲が良かった。
 アンティオフ・ドミートリエヴィチ・カンテミール公は詩人であった。物心ついた時にはロシアに暮らしていて、それもあってロシア語を自在に操った。こんにちでもロシア最初期の詩人として高く評価されているが、その辺りで文学的素養の高かったマリーヤ・カンテミール公女と趣味が一致したということなのかもしれない。

 結局生涯結婚はしなかった。イヴァン・グリゴーリエヴィチ・ドルゴルーキー公やカルトリ王子アレクサンドルから求婚されたとも言われる。

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