コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ
Константин Николаевич
大公 великий князь
海軍元帥 генерал-адмирал (1831-)
生:1827.09.09/09.21−サンクト・ペテルブルグ
没:1892.01.12-13/01.24-25(享年64)−パーヴロフスク
父:皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ 1796-1855
母:皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ 1798-1860 (プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)
結婚:1848−パーヴロフスク
& アレクサンドラ・イオシフォヴナ 1830-1911 (ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフ)
愛人:アンナ・クズネツォーヴァ 1847-1922
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクサンドラ・イオシフォヴナと | |||||||
1 | ニコライ | 1850-1918 | 1882 | ナデージュダ | 1861-1929 | アレクサンドル・ドレイエル | ロシア人 |
2 | オリガ | 1851-1926 | 1867 | ゲオルギオス1世 | 1845-1913 | ギリシャ王(1863-1913) | 君主 |
3 | ヴェーラ | 1854-1912 | 1874 | オイゲン | 1846-77 | ヴュルテンベルク公(1875-77) | ドイツ諸侯 |
4 | コンスタンティーン | 1858-1915 | 1884 | エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ | 1865-1927 | ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ | ドイツ諸侯 |
5 | ドミートリー | 1860-1919 | − | ||||
6 | ヴャチェスラーフ | 1862-79 | − | ||||
?と | |||||||
1 | マリア・コンドゥーソ? | ||||||
アンナ・クズネツォーヴァと (姓はクニャーゼフ) | |||||||
1 | セルゲイ | 1873 | − | ||||
2 | マリーナ | 1875-1941 | 1894 | アレクサンドル | 1861- | パーヴェル・エルショーフ将軍 | ロシア人 |
3 | アンナ | 1878-1920 | 1898 | ニコライ | 1869-1920 | ニコライ・リャーリン将軍 | ロシア人 |
4 | イスマイール | 1879-85 | − | ||||
5 | レフ | 1883-85 | − |
コンスタンティーノヴィチの祖。皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチの第六子(次男)。
皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの弟。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797-1888)の甥。
コンスタンティーノヴィチ Константиновичи とは、父称コンスタンティーノヴィチ Константинович の複数形(日本語表記では区別できないが)。父称とは「〜〜の息子」、「〜〜の娘」を示すものだから、つまり「コンスタンティーンの子供たち」というのが本来の意味。それが転じて、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の子孫をコンスタンティーノヴィチ(複数)と呼ぶ。
幼少時より気性の荒い、難しい子だったらしい。通常よりも早く、養育係が女性から男性に切り替えられた。やがて成人してからも、威圧的で無愛想で短気で、およそ «社交的» とは程遠い人物であった。
すでに叔父ミハイール・パーヴロヴィチ大公が陸軍にいたことも考慮されたのかもしれないが、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公ははじめから父により海軍軍人となることが定められていた。5歳の時から養育係としてつけられた海軍軍人フョードル・リトケの薫陶よろしく、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は海軍に熱中。
またコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の養育には、兄アレクサンドル・ニコラーエヴィチ大公の養育係であったヴァシーリー・ジュコーフスキーもかかわり、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は兄同様の(あるいはそれ以上の)広範囲で質の高い教育が授けられた。
1844年、海軍大佐となったコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は、フリゲート艦 «ウリス(ユリシーズ)» の艦長となる。
フョードル・ペトローヴィチ・リトケ(1797-1882)は海軍軍人。ロシア初の世界一周航海にも参加したほか、各種学術探検、教育にも携わっている。科学アカデミー総裁(1864-82)。伯。
ミハイール・パーヴロヴィチ大公の妃エレーナ・パーヴロヴナに可愛がられ、その影響もあって芸術に開眼。ピアノとチェロを弾き、ホメーロスを愛好する。
結婚に際しストレーリナとサンクト・ペテルブルグのムラーモルヌィー宮殿を与えられる。1849年にミハイール・パーヴロヴィチ大公が死ぬと、パーヴロフスクを譲られる。4兄弟の中で最も裕福だった(個人資産の点で)。
ミハイール・パーヴロヴィチ大公の死後、未亡人エレーナ・パーヴロヴナ大公妃によってミハイロフスキー宮殿は芸術家や学者、知識人のサロンとなったが、その常連のひとりとなったのがコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公であった。すでにリトケやジュコーフスキーから薫陶を受けていたコンスタンティーン大公は、エレーナ・パーヴロヴナ大公妃のサロンでリベラリストと交わっていく中で改革に対する情熱を深めていった。
1849年、ハンガリー蜂起の鎮圧に出動し、初陣を飾る。
クリミア戦争(1853-56)に際してはクロンシュタット防衛戦に従事。
1855年、父の死で後を継いだ兄アレクサンドル2世から海軍元帥とされ、海軍大臣に任命される。以後、旧態依然としたロシア海軍の近代化に尽力。当時ほとんど木造の帆船ばかりだった軍艦を鉄製の蒸気船に。
1857年には農奴解放委員会の議長に任じられ、しばしば揺れる兄を叱咤し、反対派の抵抗を粉砕して、1861年に農奴解放令としてまとめた。
ポーランド副王(1862-63)として弾圧的な政策を改め、«ポーランド化» 政策を推進するが、あるいはこれが引き金となったのか、一月蜂起が勃発(1863-64)。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は解任された。
サンクト・ペテルブルグに帰還後、今度は司法改革に取り組む。
国家評議会議長(1865-81)。憲法制定を目指す。しかし農奴解放令発布後の揺れ戻しや、そもそも農奴解放が順調に進まなかったことなどもあり、1860年代半ばにはアレクサンドル2世は保守反動化。兄のコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公に対する信任は依然として篤かったようだが、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の兄に対する影響力は薄れていった。
ひとつには「ポーランド蜂起を引き起こした」ことにもよるだろうが、そもそも «粗野» で人あしらいの下手なコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は敵をつくりやすかったということもある(リベラル派にも多数の敵をつくった)。
政治的にフラストレーションを溜めていったことが、あるいはもとからあった妻アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃との溝を深めることになったのかもしれない。
コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公とアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃の夫婦仲は当初は親密であったし(ふたりで楽器を合奏したりしている)、たとえばポーランド副王としてコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公が宥和政策をとった時にもアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃がこれを支持するなど、職務の面でも支えになってきた。しかしそもそもアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃は、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公とは反対の保守的心情の持ち主であった。
いずれにせよ、1860年代末にはコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は外に愛人を持つようになる。この頃マリア・コンドゥーソという私生児を設けたとも言われる。
しかしより永続的な関係を結んだのは、1868年頃に出会ったと思われるアンナ・クズネツォーヴァ。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公はアンナとその子供たちをパーヴロフスクに住まわせる。
1874年、長男ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公がアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃の寝室に忍び込み、ダイヤモンドを盗んだ。革命思想にかぶれていたそうなので、あるいはそれとも関連があるのだろうか。
いずれにせよニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は逮捕され、狂人と宣言されて、中央アジアに追放された。
1881年、アレクサンドル2世が死去。後を継いだアレクサンドル3世は、個人的にも叔父を嫌っていたし、政治信条的にも水と油だった。家庭的であったアレクサンドル3世が、公然と愛人を囲う叔父に一段と嫌悪感を強めたということもあったろう(それでも私生児たちは1883年に貴族の位とクニャーゼフの姓を認められた)。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公はあらゆる職務を剥奪され、強制的に引退に追い込まれた。
以後、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公はクリミアのオレアンダで閑を持て余す。
1889年、脳卒中に見舞われ、言語機能と両脚が麻痺。パーヴロフスクに連れ戻された。以後、妻アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃の世話なしには動くことすらままならなかった。
ペトロパーヴロフスキー大聖堂に埋葬された。その後隣接して建てられた «大公霊廟» に移されている。