コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ
Константин Константинович
大公 великий князь
生:1858.08.10/08.22−ストレーリナ
没:1915.06.02/06.15(享年56)−パーヴロフスク
父:コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 1827-92 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ)
母:アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃 1830-1911 (ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフ)
結婚:1884−サンクト・ペテルブルグ
& エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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エリザヴェータ・マヴリーキエヴナと | |||||||
1 | ヨアン | 1886-1918 | 1911 | エレーナ | 1884-1962 | ユーゴスラヴィア王ペータル1世 | 君主 |
2 | ガヴリイール | 1887-1955 | 1917 | アントニーナ | 1890-1950 | ラファイール・ネステローフスキー | ロシア人 |
1951 | イリーナ公女 | 1903-93 | イヴァン・アナトーリエヴィチ・クラーキン公 | ゲディミノヴィチ | |||
3 | タティヤーナ | 1890-1970 | 1911 | コンスタンティーン公 | 1889-1915 | バグラティオーン=ムフランスキー公 | ロシア貴族 |
1921 | アレクサンドル | 1877-1922 | ヴァシーリー・コロチェンツェフ | ロシア人 | |||
4 | コンスタンティーン | 1890-1918 | − | ||||
5 | オレーグ | 1892-1914 | − | ||||
6 | イーゴリ | 1894-1918 | − | ||||
7 | ゲオルギー | 1903-38 | − | ||||
8 | ナターリヤ | 1905 | − | ||||
9 | ヴェーラ | 1906-2001 | − |
コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の第四子(次男)。
皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。
1868年頃、コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公が10の前後に、父が外に愛人をつくる。1874年、16歳の時には兄ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が追放される。人格形成期に起きたこれらの出来事がコンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の人生に多大な影響を与えたと思われる。
海軍軍人としての道に入れられ、1877年には露土戦争に従軍。
しかしその後陸軍に転向。プレオブラジェンスキー連隊長(1891-1900)、軍事教育機関総局長(1900-15)を歴任した。
ただし軍人、あるいは行政官としては必ずしも有能とは言えなかったようで、1908年にはドゥーマ(国会)で議長アレクサンドル・グチコーフ(立憲君主主義者)から厳しく糾弾されている。そもそもかれは真面目ではあっても、軍人タイプでも行政官タイプでもなく、そもそも軍事や行政に興味を持ってすらいなかった。
コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公は芸術家だった。両親同様音楽の才に恵まれてピアノをよくした。しかし本領は文学にあり、К. Р. のイニシャルで詩を発表(最初の詩は1882年に発表された)。優れた詩を残し、曲がつけられて歌われたものもある(かれ自身が他人の詩に曲をつけたこともある)。ただし様式は古典的で、必ずしも今日的に評価が高いわけではないようだ。
またシラーやゲーテ、シェイクスピアなどをロシア語に翻訳している。パステルナークの翻訳が出るまでは、コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の翻訳が『ハムレット』ロシア語版の定番だったらしい(ソ連時代にも出版されている)。
自らも戯曲を書き、自ら舞台に立ってもいる(自身の戯曲『ユダヤの王』で主役を演じた)。
科学アカデミー名誉会員(1883-)、総裁(1889-1915)として、詩人や作家の作品の出版、支援に尽力した(なお、ロマーノフ一族で科学アカデミー総裁に就任したのはコンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公だけ)。
ドストエーフスキー、ルビンシュテイン、チャイコーフスキー、クインジ、レーピンなどと親しかった。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエーフスキー(1821-81)はロシア人作家。
アントーン・グリゴーリエヴィチ(1829-94)とニコライ・グリゴーリエヴィチ(1835-81)のルビンシュテイン兄弟はピアニスト・作曲家。のちに続くロシア発の世界的ピアニストの第一号であり、兄はペテルブルグ音楽院の、弟はモスクワ音楽院の創設者。なおこの兄弟(のどちらか)は一部で『猫踏んじゃった』の作曲者とも言われている。
ピョートル・イリイーチ・チャイコーフスキー(1840-93)はロシア人作曲家。
アルヒープ・イヴァーノヴィチ・クインジ(1842-1910)はウクライナ人画家。移動展派のひとりだが、のち芸術アカデミーの教授。
イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン(1844-1930)はロシア人画家。移動展派に近かったものの必ずしも権力に敵対的ではなかった。かれも芸術アカデミーの教授になっている。
1884年、サンクト・ペテルブルグで又従姉妹にあたるエリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃と結婚。エリザヴェータ大公妃とは仲睦まじく、子供たちとも親密で、結婚生活は幸福なものであったようだ。
科学アカデミーに預けられた日記(死後90年間公刊を認めなかったが、1994年に公表された)によれば、ホモセクシャルであり、その苦悩が綴られている。
結婚後はサンクト・ペテルブルグのムラーモルヌィー宮殿に住んだが、夏はストレーリナにあったコンスタンティーン宮殿よりもパーヴロフスクで過ごすことが多くなった。
1892年に父が死ぬと、兄ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が廃嫡されていたため、コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公がコンスタンティーノヴィチの家長となる。
第一次世界大戦勃発を家族とともにドイツで迎え(妻の実家アルテンブルクを訪問中だった)、いったんは拘束される。しかしドイツ皇后アウグスタ(1858-1921)の取り成しで、ロシアに帰国することができた。
四男オレーグ・コンスタンティーノヴィチ公、娘婿バグラティオーン=ムフランスキー公が相次いで戦死し、すでに健康の衰えていたコンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公は、戦争の最中にパーヴロフスクの自邸で没した。
革命前に死んだ最後のロマーノフで、ペトロパーヴロフスカヤ要塞の «大公霊廟» に葬られた。
政治信条の面では、あるいは父の影響を受けたのか、リベラルだと見られていた。しかし同じくリベラルと見られていたミハイロヴィチ兄弟がずけずけモノを言い、また女好き、ギャンブル好きであったことから批判を受けやすかったのに対して、コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公は信仰に篤く清廉潔白で(同性愛は隠し通した)、性格的にも穏やかな人柄だったようで、誰からも好かれた(この点、弟のドミートリー・コンスタンティーノヴィチ大公も同じ)。
また公的にも私的にもロマーノフ家に対する忠誠心が強く(同性愛者であったにもかかわらず結婚し子をなしたのもその表れか)、ために保守的な従兄弟アレクサンドル3世やニコライ2世とも親密だった。
さらには19世紀後半のロシアを二分したスラヴ派と西欧派の対立ではスラヴ派に属し、それがまたロシア化政策を推進したアレクサンドル3世の気に入るところともなったのだろう。
Но пусть не тем, что знатного я рода,
Что царская во мне струится кровь,
Родного, православного народа
Я заслужу доверье и любовь,
Но тем, что песни русские, родные
Я буду петь немолчно до конца,
И что во славу матушки-России
Священный подвиг совершу певца.
願わくば 親愛な 正教の人々の
信頼と愛情を勝ち得るのは
高貴な一族の者であるがゆえに
ツァーリの血が流れるがゆえにではなく
ロシアの歌 愛する歌を
最期まで黙すことなく歌うがゆえに
母なるロシアの栄光のため
詩人の崇高なる偉業を打ち立てるがゆえに