キリール・ヴラディーミロヴィチ
Кирилл Владимирович
大公 великий князь
皇位の守護者 блюститель престола (1922-24)
皇帝 император Всероссийский (1924-)
生:1876.09.30/10.12−ツァールスコエ・セロー
没:1938.10.13(享年72)−ヌイイ=シュール=セーヌ(フランス)
父:ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 1847-1909 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ)
母:マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃 1854-1920 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世)
結婚:1905−テゲルンゼー(ザクセン、ドイツ)
& ヴィクトリヤ・フョードロヴナ 1876-1936 (エディンバラ公アルフレッド&マリーヤ大公女)
ヘッセン&ライン大公エルンスト・ルートヴィヒ妃
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ヴィクトリヤ・フョードロヴナと | |||||||
1 | マリーヤ | 1907-51 | 1925 | フリードリヒ・カール | 1898-1946 | ライニンゲン侯 | ドイツ貴族 |
2 | キーラ | 1909-67 | 1938 | ルイ・フェールディナント | 1907-94 | プロイセン王家(ドイツ皇帝家)当主 | ドイツ諸侯 |
3 | ヴラディーミル | 1917-92 | 1948 | レオニーダ | 1914- | ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ・バグラティオーン=ムフランスキー公 | ロシア貴族 |
ヴラディーミロヴィチ。ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の第二子(次男)。ただし兄は早世しているので、実質的に長男。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。
1893年に海軍士官学校に入学。1901年には巡洋艦アドミラル・ナヒーモフに乗船して2年間の航海に出、海軍中佐となる。
キリール・ヴラディーミロヴィチ大公は1891年の出会い以来、従姉妹のザクセン=コーブルク&ゴータ公女ヴィクトリア・メリタと相愛の関係にあった。しかし従兄弟同士の結婚は正教会により禁じられていた。
1901年、ヴィクトリア・メリタが夫ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒと離婚。エルンスト・ルートヴィヒの妹が皇后アレクサンドラ・フョードロヴナであったことから、いまやヴィクトリア・メリタがフリーの身の上になったとはいえ、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公との結婚には新たな障害が生じたことになる。ふたりの接近を案じた皇帝ニコライ2世や父らにより、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公は軍務を口実に極東に送られた。1904年、太平洋艦隊司令官マカーロフ中将の参謀。
日露戦争で旗艦ペトロパーヴロフスクが旅順港で沈没した際には、負傷しつつも奇跡的に生還した(マカーロフ中将は戦死)。
1905年、ヴィクトリア・メリタと秘密結婚。しかしこれは皇帝ニコライ2世の承認を得られなかった。
理由はふたつある。ひとつはヴィクトリア・メリタが離婚歴のある女性であったこと。しかも最初の夫ヘッセン&ライン大公エルンスト・ルートヴィヒは皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナの実兄であった。さらには結婚後、エルンスト・ルートヴィヒが同性愛者であるという噂の火元と見られていた。
もうひとつの理由は、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公とヴィクトリア・メリタが従兄弟同士であること。正教会の教会法では従兄弟同士の結婚は近親婚として禁じられていた。
さらに言うと、ヴィクトリア・メリタは結婚後もルター派信仰を守って正教に改宗しなかった(ただしこれは問題にならない)。
キリール・ヴラディーミロヴィチ大公は国外追放に処され、皇族としての権利と軍の階級を剥奪され、パリで両親の仕送りで生活した。
1907年、ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の強い圧力で、またヴィクトリヤが正教に改宗したこともあり、ニコライ2世は勅令でこの結婚を認め、ヴィクトリヤに大公妃の称号を、長女マリーヤ・ヴラディーミロヴナに公女の称号を与えた。この年、ニコライ・ニコラーエヴィチ «ムラートシー» 大公が、同じく離婚歴のある女性と結婚したが、これにニコライ2世が承諾を与えたことが、ヴラディーミロヴィチの怒りを(不公平だとして)買ったとも言われている。
1909年、ニコライ2世はキリール・ヴラディーミロヴィチ大公の皇族としての権利を戻した。これにより、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公はヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃とともにロシアに帰国。
ニコライ2世がキリール・ヴラディーミロヴィチ大公を皇族に復したについては、相次ぐロマーノフ家の死でキリール・ヴラディーミロヴィチ大公が皇位継承順位3位になったことが挙げられることがある。しかし、皇太子アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公が生まれたのが1904年。他方ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公が死んだのは1899年。つまり1899年から1904年まで、すでにキリール・ヴラディーミロヴィチ大公はミハイール・アレクサンドロヴィチ大公と父ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公に次いで皇位継承順位第3位にあり、1905年以降は第4位に «後退» しているのである(1909年にちょうど父を亡くし、再び第3位に復帰)。むしろ、1908年にミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が離婚歴のある人妻を愛人としたこと(彼女との結婚は貴賎結婚になり、子が生まれたとしても皇位継承権はない)が、ニコライ2世の決断を促したのではないかと想像される。死にゆくヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公への «はなむけ» という意味合いもあったのかもしれない。
再び軍務に復したキリール・ヴラディーミロヴィチ大公はニコラーエフ海軍アカデミーを卒業し、巡洋艦オレーグの艦長となる。1912年、ストックホルム・オリンピックにはニコライ2世の代理として出席している。
第一次世界大戦が勃発すると最高総司令部に参謀として勤務。1915年には海軍近衛兵団の司令官。最終的には海軍少将。
1917年の革命時のキリール・ヴラディーミロヴィチ大公の動向については、いくつかの矛盾する証言がある。
二月革命後、ロマーノフ家として最初に皇帝への忠誠を放棄して臨時政府に忠誠を誓い、ために多くのロマーノフから «裏切り» と見なされて不興を買ったというものが、最も広く知られている。
その一方で、叔父パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公とともにニコライ2世の皇位を護ろうと尽力したとも言われる。二月革命後も、臨時政府による元皇帝一家軟禁に反対したとされる。
この2説は必ずしも相互に矛盾するものではないが、二次資料に依存していたのではどうしょうもない。
首都の騒乱も夏までには一応終息したが、この時期にキリール・ヴラディーミロヴィチ大公は家族とともにフィンランドに逃亡。法的にはフィンランド大公国はロシア帝国と同君連合の関係にあり、もともと別の国(「フィンランドはロシアの一部」という記述をよく目にするが、法的にも事実からしてもこれは間違い)。しかもキリール・ヴラディーミロヴィチ大公一家が亡命したちょうどその時に «独立宣言» を発している(これも厳密には «独立宣言» ではなく «絶縁宣言»)。
内戦中、フィンランド軍司令官グスタフ・マンネルヘイムや、北西部の白衛軍司令官ニコライ・ユデーニチと密接な関係を持ちつつ、ボリシェヴィキー政権の崩壊と自身のロシア帰国を心待ちにしてフィンランドにとどまり続ける。しかし経済的にはかなり追い詰められた状態にあったようで、生まれたばかりのヴラディーミル・キリーロヴィチ公のミルクにも事欠くあり様だったようだ。
内戦の終結(とそれによるボリシェヴィキー政権の確立)とともにスイスに亡命。その後、妻の実家コーブルク(ドイツ)や、南仏、サン=ブリアック(ブルターニュ)などに居住。
1922年、«皇位の守護者» を自称。1924年、パリで皇帝を自称する。当然、アンナ・アンダーソンを認めず。
ニコライ2世と皇太子アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公、皇弟ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公がボリシェヴィキーにより殺された結果、皇位継承法によればキリール・ヴラディーミロヴィチ大公が皇帝となる。ところがキリール・ヴラディーミロヴィチ大公の皇位継承は、必ずしも全ロマーノフ、全亡命ロシア人の支持・承認を得たわけではない。
ちなみに、支持を得るためもあってか、一族が貴賎結婚をした相手に称号をばらまいている。
ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の未亡人ナターリヤ・シェレメーティエフスカヤにはロマーノフスカヤ=ブラーソヴァ公妃 светлейшая княгиня Романовская-Брасова、弟アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公の妻マティルダ・クシェシニスカにはロマーノフスカヤ=クラーシンスカヤ公妃 светлейшая княгиня Романовская-Красинская、ドミートリー・パーヴロヴィチ大公の妻オードリー・エメリにはロマーノフスカヤ=イリインスカヤ公妃 светлейшая княгиня Романовская-Ильинская、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公の妻アントニーナ・ネステローフスカヤにはロマーノフスカヤ=ストレーリニンスカヤ公妃 княгиня Романовская-Стрельнинская、ドミートリー・アレクサンドロヴィチ公の妻マリーナにはロマーノフスカヤ=クトゥーゾヴァ公妃 светлейшая княгиня Романовская-Кутузова、といった具合である。
亡命生活においては、必ずしも妻に忠実ではなかったようだ。
妻とともにコーブルクのザクセン=コーブルク&ゴータ公家(妻の実家)の墓地に埋葬された。
1995年、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公と妻の遺骸は、ペトロパーヴロフスキー大聖堂脇の «大公霊廟» に改葬された。