ロマーノフ家人名録

カール・レーオポルト

Karl Leopold, Карл Леопольд

メクレンブルク=シュヴェリーン公 Herzog von Mecklenburg-Schwerin (1713-28)

生:1678.11.16/11.26−グラボウ(メクレンブルク、ドイツ)
没:1747.11.17/11.28(享年69)−デーミッツ(メクレンブルク、ドイツ)

父:フリードリヒ1世 1638-88 メクレンブルク=グラボウ公(1654-88)
母:クリスティーネ・ヴィルヘルミーネ 1653-1722 (ヘッセン=ホンブルク方伯ヴィルヘルム・クリストフ)

結婚①:1703−レーワルデン(フリースラント、オランダ)(1710年離婚)
  & ゾフィーア・ヘドヴィヒ 1690-1734 (ナッサウ=ディーツ侯ハインリヒ・カジミール)

結婚②:1710−バート・ドベラン(メクレンブルク、ドイツ)(1711年離婚)
  & クリスティーネ・ドロテーア (クラウス・フリードリヒ・フォン・レーペル)

結婚③:1716−ダンツィヒ(現グダニスク、ポーランド)
  & エカテリーナ・イヴァーノヴナ 1691-1733 (ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エカテリーナ・イヴァーノヴナと
1エリーザベト1718-461739アントン・ウルリヒ1714-74ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェールディナント・アルプレヒト2世ドイツ諸侯

ドイツの領邦君主フリードリヒ1世の第二子(次男)。ルター派。
 妹ゾフィー・ルイーゼ(1685-1735)は初代プロイセン王フリードリヒ1世(1657-1713)の第3妃。

バルト海の南岸部は、東のプロイセンから西にポンメルン(ポモージェ)、メクレンブルクと続く。もともとメクレンブルクはスラヴ人の土地だったが、12世紀にドイツの支配下に組み込まれ、ドイツの封建領土化した。メクレンブルク公家は土着のスラヴ人の王家が存続したもので、18世紀にはロマーノフ家と並んで唯一残ったスラヴ系の «王家» だった。
 メクレンブルクは北西にデンマーク、北東にバルト海を臨み、故に北欧との関係が強かった。

 メクレンブルクを含め、当時ドイツの諸領邦は分割相続制を採っていた。事実祖父の死後、メクレンブルク公領は6兄弟によって分割されていた。カール・レーオポルト誕生時には伯父たちのうち3人が子なくして死んでおり、メクレンブルク公領は伯父クリスティアン・ルートヴィヒ1世(シュヴェリーン)、父(グラボウ)、叔父アードルフ・フリードリヒ2世(シュトレーリツ)に分割されていた。当然、父の死後は次男とはいえカール・レーオポルトにも領土が分割譲渡されるはずだった。
 1688年に父が死去。この時にはまだカール・レーオポルトが幼年だったこともあり、領土は譲渡されず、一括して兄フリードリヒ・ヴィルヘルムが相続した。1692年にはクリスティアン・ルートヴィヒ1世も子なくして死に、兄がシュヴェリーンの領土も相続した。
 1701年、ハンブルク条約によりメクレンブルク公領の現状維持と、以後の分割禁止が定められた。これによりメクレンブルクが、フリードリヒ・ヴィルヘルムの支配するメクレンブルク=シュヴェリーン公領と、アードルフ・フリードリヒ2世の支配するメクレンブルク=シュトレーリツ公領とに二分される状態が固定化され、1918年まで続くことになる。カール・レーオポルトが領土を相続するチャンスはなくなった。
 若干の «アパナージュ» をもらったカール・レーオポルトは、イギリス、フランス、オランダを転々とし、最終的には北方戦争を戦うスウェーデン王カール12世(1682-1718)に仕えたりもした。

 カール・レーオポルトはまだ «部屋住み» の1703年、ゾフィーア・ヘドヴィヒと結婚していた(結婚は兄よりも先だった)。しかしこの結婚は失敗で、1710年にはゾフィーア・ヘドヴィヒを追い出し、クリスティーネ・ドロテーアと貴賎結婚をした(しかしクリスティーネ・ドロテーアは翌年リューベックの母のもとに逃げ帰っている)。
 ところが1713年、兄フリードリヒ・ヴィルヘルムが子なくして死去。カール・レーオポルトが公位を継ぐことになった。

 祖父、父、兄と続く «悲願» が、1648年のヴェストファーレン条約でスウェーデンに奪われていたヴィスマールの奪還であった。16世紀以来バルト海を «スウェーデンの湖» とすることを第一の戦略に掲げていたスウェーデンは、三十年戦争を通じて西ポンメルン(フォアポンメルン)を獲得。これに隣接するメクレンブルクにも手を伸ばしており、スウェーデンにとってもヴィスマールはドイツ北部にさらに勢力を拡大する上で譲れない領土だった。
 このため北方戦争では兄も反スウェーデン連合に加わって参戦。ポルターヴァの戦いにより、スウェーデンの没落と新たな大国としてのロシアの台頭が決定的となった。メクレンブルク=シュヴェリーン公としては戦後のヴィスマール奪回を計ってロシアに接近することになる。
 しかも公位を継いだカール・レーオポルトには再婚、しかも相応しい相手との再婚の必要性が持ち上がっていた。こうしてカール・レーオポルトはロシアに目を向けた。

 1716年、カール・レーオポルトはロシア皇帝ピョートル1世の姪ツァレーヴナ・エカテリーナ・イヴァーノヴナと結婚。エカテリーナ・イヴァーノヴナが正教信仰を保持するのは認めたが、子供たちはルター派として育てることが合意された。

 合意に基づき、1716年、ロシア軍がメクレンブルク=シュヴェリーンに進駐。なお、ロシア軍が自国の国境を越えたのは、ポーランド、スウェーデン、オスマン帝国といった隣国に侵攻したのを除けばこれが初めてであり、そういう意味では画期的な出来事であった。

 しかし当時、カール・レーオポルトは公私ともに問題を抱えていた。
 プライベートでは、最初の妃ゾフィーア・ドロテーアとの離婚が正式に解消されていなかったことである(要はカール・レーオポルトがゾフィーア・ドロテーアに相応の補償をしなかったのだ)。結局、ピョートル大帝自らが乗り出し、ピョートル大帝がゾフィーア・ドロテーアに年金を与えることで離婚訴訟は決着した。この合意が成立するまでは、カール・レーオポルトとエカテリーナ・イヴァーノヴナとの結婚は非合法だった、ということになる。

 公的な側面におけるカール・レーオポルトの問題とは、国内諸侯や議会との関係が最悪の状態にあったことである。メクレンブルクは決して議会(貴族はここに拠って公と対立した)が強力な国ではなかったが、絶対専制君主として君臨しようとするカール・レーオポルトはこれと対立。そこにロシア軍が進駐。カール・レーオポルトがこれに頼って諸侯の抵抗を粉砕しようとしたため、諸侯との対立が激化。国政は麻痺状態に陥った。
 1717年、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)によりメクレンブルク=シュヴェリーンは «差し押さえ» られた。«管財人» はハノーファー選帝侯ゲオルク/イギリス王ジョージ1世(1660-1727)。カール・レーオポルトはシュヴェリーンを追われた。

 1728年、正式に弟クリスティアン・ルートヴィヒ2世に公位を譲る。

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